映画監督 前田哲さん 世の中の「家族はこうあるべし」と戦ってきました

中山敬三 (2021年11月14日付 東京新聞朝刊)
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前田哲さん(池田まみ撮影)

家族のこと話そう

小学4年、映画監督になると決めて

 子どもの頃は、両親に大相撲の大阪場所に連れて行ってもらうのが、楽しみでした。3人でゆったり桟敷席に座って、お弁当を食べるのがとてもぜいたくな感じでした。宝塚歌劇にも3人でよく行きました。周囲の友達は、歌手の小柳ルミ子さんや天地真理さんに憧れていましたが、私にとってのスターは断然、宝塚のトップスターだった鳳蘭さんでした。

 映画監督になると決めたのは小学4年の時です。友達が持っていた「ライフ・ザ・ムービー」という1万3000円もする本が欲しくなり、お年玉で手に入れました。俳優以外のスタッフの写真も載っていて「これだ」と直感しました。当時から人に指示されるのが嫌で、「ああしてください」「こうしてください」と言う方が向いていると思ったのです。

 高校を出て、すぐ上京しました。20歳までは仕送りをもらうけれど、以降は1円もいらないという約束でした。専門学校をドロップアウトして東映東京撮影所でセットをばらすアルバイトをしていました。技術がないので、建てることはできないんです。父親ぐらいの年齢の先輩が私の「助監督をやりたい」という思いを知って、スタッフと知り合うきっかけをつくってくださいました。

 まさに「3K」そのものの仕事でしたが、現場は生きもので毎日、違うことが起きるのでワクワクしました。伊丹十三監督からは「映画には何でも取り込める」ということを学びましたし、相米慎二監督からはスタッフの意見を取り入れて、当初の自分のイメージを超える面白さを学びました。

差別や偏見を取っ払ってやろう、と

 監督になってからは、両親が作品公開を一番楽しみにしてくれていて「次はいつなの」と尋ねられます。父は絵を描くこともあるのですが、めちゃめちゃ下手。母も整理整頓のセンスが全くない。部屋の飾り付けがひどかったのも、早く実家を離れたかった一因です。

 「芸術的センスが全くない両親から生まれて、俺、結構努力して映画界にいるよね」と冗談交じりに言ったら、父も母も「なに言ってんの」て感じで相手にされませんでした。

 これまで作ってきた映画では「家族はこうあるべし」という世の中の押しつけと常に戦ってきました。年齢非公表なのも一つのカテゴリーにはめられたくないからです。本当は大阪出身だということも言いたくありません。「障害者だから」「女だから」といった差別や偏見を取っ払ってやろうという思いが常に自分の映画作りの根底にあります。

前田哲(まえだ・てつ)

 大阪府生まれ。美術助手などを経験後、フリーの助監督となり、伊丹十三監督、周防正行監督らの作品に携わる。1998年、相米慎二総監督のオムニバス映画「ポッキー坂恋物語 かわいいひと」で監督デビュー。「老後の資金がありません!」「そして、バトンは渡された」の2作品が公開中。

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