映画監督 蔦哲一朗さん 池田高校野球部の名将だった祖父・蔦文也を追って

草間俊介 (2019年3月31日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

写真

映画監督の蔦哲一朗さん(岩本旭人撮影)

引退後は好々爺 プラモデル買ってくれた

 祖父は徳島県の山あいにある県立池田高校(三好市、当時は池田町)で野球部監督を1952年から40年間務めた蔦文也(1923~2001)です。春夏合わせて甲子園で優勝3回、準優勝2回。「攻めダルマ」と呼ばれ、全国に名をとどろかせました。部員11人ながら準優勝を果たした1974年の春の甲子園は「さわやかイレブン」と旋風を巻き起こしています。

 私も池田高の出身ですが、小中高とサッカーをしていたので、祖父から野球の指導を受けたことはありません。私がよく知っている祖父は、監督を引退した後の好々爺(や)然とした姿です。孫の私をかわいがり、プラモデルをよく買ってくれました。

祖父をテーマに映画製作 偉大さを実感 

 私は映像の道に進み、故郷を舞台にした映画を撮りました。撮影中、「じいちゃんのは撮らないのか」とよく言われ、「撮ってみよう」と決めました。地元と大阪のテレビ局に残っていた試合や練習の映像に、祖母や元野球部員ら関係者のインタビューを加えるなどして「蔦監督-高校野球を変えた男の真実-」を2011年から4年かけて製作しました。その過程であらためて偉大さを実感しました。

 祖父は県立商業学校(現徳島商業高)で1940年夏など3回甲子園に出ました。同志社大に進みましたが、戦争で学徒出陣。特攻機「白菊」で出撃するべく訓練に明け暮れていたら終戦に。大学卒業後、プロ野球に入ったものの、在籍は一年だけに終わりました。故郷に帰り池田高の社会科教師になり、野球部監督にも就きました。

 祖父は大酒飲みでした。伝え聞くところでは、毎晩ビール大瓶を40~50本飲んでから日本酒、ウイスキーを飲み始めたそうです。飲食店で飲んだくれていた祖父を、祖母が捜し回り、連れて帰っていました。連れ戻す際の二人のバトルは地元のちょっとした名物でしたが、いつも祖母が勝っていたようです。

「大海を見せてやりたかったんじゃ」

 祖父は深酒をしても、翌日の朝練習は生徒より早くグラウンド整備に出ていました。教え方は厳しかった。授業も酒臭いまま教壇に立っていたということです。

 祖父は多数の名言を残していますが、私はやっぱり「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」が一番好きです。大海は甲子園のことですが、私も広い世界を見たくて映像の世界に進んだと思います。

 2年前に祖父の映画を横浜市で上映した際には、教え子である元南海、横浜の畠山準さん、元巨人の水野雄仁さんらが駆けつけ、トークショーを行っていただきました。とてもうれしかったし、祖父も喜んでいると思います。

蔦哲一朗(つた・てついちろう)

 1984年6月、徳島県池田町(現三好市)生まれ。東京工芸大芸術学部映像学科卒。映画監督、一般社団法人「ニコニコフィルム」代表。2009年短編映画「夢の島」を発表。「祖谷(いや)物語 おくのひと」で2013年の東京国際映画祭「アジアの未来」部門のスペシャル・メンションを受賞。「蔦監督-高校野球を変えた男の真実-」についてはニコニコフィルムのHPで。

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