横浜の米軍機墜落から45年 住宅地で犠牲になった母子3人を忘れないで 今も遺族が資料室

米田怜央 (2022年9月28日付 東京新聞朝刊)
写真

土志田和枝さんらの写真を収めたアルバム。手前の写真には和枝さん(左上)と裕一郎ちゃん(右)、康弘ちゃんが写っている=横浜市緑区で

 横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に米軍機が墜落し、巻き込まれた母子3人が死亡し、6人が負傷した事故から27日で45年がたった。地元には母子の生きた証しを静かに伝える資料室が設けられている。写真などを託した遺族は「事故を忘れないでほしい」と願い続けている。

大やけどの母親 4年4カ月後に死亡

 写真の中の土志田和枝さん=享年(31)=は、笑顔で次男康弘ちゃん=同(1つ)=を抱えていた。後ろでは長男裕一郎ちゃん=同(3つ)=も両手を握り締めてポーズを決めていた。現在の緑区にある知的障害者施設「愛・中山事業所」の一室に、事故に奪われる前の家庭のぬくもりが残っている。

 1977年9月27日午後1時過ぎ米海軍厚木基地を離陸した偵察機が墜落した。火災に巻き込まれた裕一郎ちゃんと康弘ちゃんは直後に死亡。同じく大やけどを負った和枝さんは皮膚の移植手術を繰り返したが、4年4カ月後に呼吸困難で死亡した。乗員2人は脱出して無事だった。

「今日のはくやし泣き」筆談の記録

 2008年にオープンした資料室は社会福祉法人「和枝福祉会」が管理する。「元気になったら福祉の仕事で恩返しがしたい」と語った和枝さんの遺志を継ぎ、遺族が設立した団体だ。

 資料室には事故前後の家族写真のほか、事故後に話すことが困難だった和枝さんが家族に向けた筆談の記録がある。「早くこのへやから出たい」「痛くて泣く時もあるが今日のはくやし泣き」。全身の約8割にやけどを負った和枝さんが、薬浴や手術に苦しむ日々が弱々しい文字で浮かび上がる。まとめられた新聞記事は、事故の惨状をありありと伝えている。

写真

土志田和枝さんが家族に向けた筆談の記録=横浜市緑区で

 資料は和枝さんの兄の隆さん(73)=青葉区=が提供した。事故直後に駆けつけた病院で見たのは、包帯に全身を包まれた妹の姿だった。「お兄ちゃん助けて」。かすれた声が今も耳に残る。米軍に対し、「なぜ安全な場所に落としてくれなかったのか」との思いは消えない。

 施設を訪れるのは年間で1、2人程度という。「長い時間がたった。それでも、少しでも覚えていてもらうことが事故を防ぐことにつながるんじゃないか」

 開室は平日午前10時~午後2時。無料。和枝福祉会=電話045(931)9595=に事前の問い合わせが必要。

元記事:東京新聞 TOKYO Web 2022年9月28日

0

なるほど!

1

グッときた

0

もやもや...

1

もっと
知りたい

すくすくボイス

この記事の感想をお聞かせください

/1000文字まで

編集チームがチェックの上で公開します。内容によっては非公開としたり、一部を削除したり、明らかな誤字等を修正させていただくことがあります。
投稿内容は、東京すくすくや東京新聞など、中日新聞社の運営・発行する媒体で掲載させていただく場合があります。

あなたへのおすすめ

PageTopへ