「家族は血のつながりでなく、いかに最後まで味方になるか」 里親の愛を語った「こうのとりのゆりかご」出身の宮津航一さん

菅原洋 (2025年10月7日付 東京新聞朝刊)
 親が育てられない乳幼児のために熊本市の病院が設置した「こうのとりのゆりかご」に預けられ、出自を実名で唯一公表している同市の宮津航一さん(21)が、埼玉県内では初めて加須市で講演した。生後5カ月で生みの母を交通事故で亡くした宮津さんは関東出身で「講演に際して母の墓参りをした」と明かし、険しくも里親の愛情に包まれた歩みを振り返った。
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講演する「ゆりかご」に預けられた大学生の宮津さん=いずれも加須市で

こうのとりのゆりかご

 熊本市の慈恵病院が2007年、乳幼児を匿名でも受け入れるために開設。24年度には14人の預け入れがあり、理由は生活の困窮やパートナーの問題、未婚など。同年度で累計は193人となった。同病院は孤立出産から母親を守ろうと、院外に身元を明かさない「内密出産」にも対応している。その後に東京都など各地で同病院に続く動きが出ている。

今でもゆりかごの扉の記憶は鮮明

 「自分はゆりかごが開設された初日に預けられた。3歳だったが、今でもゆりかごの扉は鮮明に覚えている」。宮津さんの記憶はここから始まる。履いてきたとみられる靴と服が添えられた写真を紹介。約半年後に里親へ引き取られた。

 実母が事故で亡くなり、親類に預けられたと知ったのは小学生の頃。小学校では乳児期の写真を添付し、生い立ちを振り返る課題が出た。しかし、宮津さんにはそうした写真は1枚もない。「自分の兄に当たる里親の実の子の赤ちゃんの頃の写真で代用した」と寂しそうな笑顔を浮かべた。

 小学生の頃には友人とトラブルになり、友人の母から里親に電話がかかってきたこともあった。「航一君は実の親がいないからトラブルになった」と抗議を受けた里親である母は「うちの子はそんな子じゃない」と毅然(きぜん)とかばってくれた。

 里親の父が日頃から「家族は血のつながりではなく、いかに最後まで味方になるかだ」と語っていたのを思い出す。「母がその言葉通り味方になり、守ってくれた」と心に刻んだ。

 宮津さんは中学生の時に生徒会長や陸上部主将を務め、高校生の時には里親と普通養子縁組を結び、子ども食堂も開設した。

子どもを理解する存在がうれしい

 高校卒業後にゆりかごに預けられた出自を初めて公表。「子どもに真実を告知することは必要。病院と育ての両親に感謝を伝えたかった」と説明した。現在は熊本県立大4年生。児童らが大学で専門家の講義を受けられる一般社団法人「子ども大学くまもと」の理事長を務めている。

 宮津さんの好きな言葉は「置かれた場所で咲きなさい」。「子どもがその場所で咲くことができるような社会が広がれば」と付け加えた。最後に「子どもたちは、自分のことを見てくれて、理解してくれる存在がうれしい。自分のできることをお願いしたい」と、県内外から来場した里親や関係者ら約100人に語りかけた。

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預かる子どもの里親経験を語る三輪さん

 明治学院大社会学部の三輪清子准教授(児童福祉)も講演。自身も里親を務めており、「預けられた中には『知られたくない。特別視されたくない』と悩む子もいる。皆が『ゆりかごの出身』と言えるような社会になってほしい」と語った。加須市の社会福祉法人「愛の泉」と愛泉里親支援センターが主催した。

元記事:東京新聞デジタル 2025年10月7日

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