性暴力の被害者は笑顔になってはいけないのか? 伊藤詩織さんへの発言に憤り 作家・吉川トリコさんの思い
このニュースを見ていた作家の吉川トリコさんは、「敗訴した相手方の発言に、悔しさと怒りが込み上げた」と語ります。その発言とは、山口氏が18日の会見で語った「本当に性被害にあった方は『伊藤さんが本当のことを言っていない。こういう記者会見の場で笑ったり、上を見たり、テレビに出演してあのような表情をすることは絶対にない』と証言してくださった」というものです。
性被害など、苦しい体験をした人は、笑えないのでしょうか。吉川さんは、2017年10月27日に中日新聞朝刊カルチャー面に寄稿したエッセーで、流産という自身の体験をふまえて、こうした問題を考えていました。「あらためて、多くの人たちと共有したい」という吉川さんの思いを受け、「東京すくすく」の読者の皆さんにも読んでいただけるよう公開しました。
夏の終わりにあったこと
先月、流産した。7週目だった。夜中に出血があり風呂場にかけこむと、真っ赤な血があふれ血の塊がいくつも流れた。翌朝、病院に行き、診察を受けた。おなかの中はからっぽだった。「剝がれちゃったかな」と暢気(のんき)な先生の声が聞こえた。
その日はすこぶる天気がよく、病室の窓から広々した秋晴れの空が見えた。もう夏も終わりだなと点滴を打ちながらうとうと微睡(まどろ)み、目が覚めたらピカチュウが大縄跳びする動画を見て腹がよじれるほど笑った。妊娠中ずっと我慢していた酒をいつから飲めるようになるのか血眼になって調べ、入院に必要なものを買ってくるついでにカツサンドとプリンも頼むと夫にメールしたら、「調子にのるな!」という返事がきてまた笑った。
そんなに悲しくはならなかった。もちろんショックだし残念だったけれど、生来のドライな性格も手伝って、しょうがないよなとすぐに割り切った。妊娠初期の流産は避けようもなく起こることだし、高齢ともなればかなりの割合にのぼる。先生も看護師もさっぱりしたもので、夫に至ってはキレッキレのスーパードライであった。面会時間を過ぎてからやってきた夫は不謹慎な冗談を飛ばし、妻の体を気遣うどころか己の不調をしきりと訴え、さんざん悪態をついて帰っていった。頼もしくなるほど普段どおりだった。
これまで私は流産というものをとてもおそろしく、迂闊(うかつ)に触れてはならないものだと思っていた。流産についておおっぴらに語るのはタブーとされているようなところがあるけれど、それが余計に流産というものを遠ざけ、よくわからないものにさせているんじゃないだろうか。実際、友人から流産の報告を受けたとき、私はあたりさわりのない言葉をかけることしかできなかった。流産というものに触れるのがこわかった。いまだったら夫に倣って冗談の一つでも言えるかもしれない。彼女ならきっと笑ってくれるだろう。悲しみは当人だけのもので共有しようもないけれど、一瞬でもそれで心が慰められるなら、いくらでも私はあたりさわりのあることを言いたい。
夏の終わりにイザベル・ユペール主演の『エル ELLE』を観た。性被害者は打ちひしがれ、傷ついた顔をしていなければならないという世間からの押しつけに真っ向からNOをたたきつけ、けろりとした顔で日常を続行しようとする主人公の姿に胸がすく思いがした。
この世界には通俗的で定型的な物語が無数に蔓延(はびこ)り、なんの疑問も抱かずそれを他人に押しつけようとする人たちが存在する。流産した女はすべからく悲嘆に暮れるべきだと思っている人にとって私のような女は情が薄いように映るかもしれないが、だからこそ私はこのことについて書こうと思ったのだし、日々、小説を書いているのだと思う。そうすることで独り歩きしそうになる物事を自分の手に取り戻しているという実感がある。物語に人生を乗っ取られないように、物語から自由であるために新たな物語を紡ぐのだ。そう、『エル ELLE』のように痛快な物語を!
どんな悲劇に見舞われたとしても日常は続くし、週末には楽しみにしていたコンサートや友人との約束が控えている。ささやかだけれど、そのために生きてると言えるようなこと。突然の事故や卑劣な犯罪者に奪われてたまるものか。
それでも時折ふと、いなくなってしまった子のことを考えてぼんやりすることもあるけれど、それもせんないことよなあ…。(2017年10月27日付 中日新聞朝刊に掲載)
吉川トリコ(よしかわ・とりこ)
1977年、静岡県生まれ。名古屋市在住。愛知淑徳短大を卒業し2004年、短編「ねむりひめ」で「女による女のためのR-18文学賞」(新潮社)の大賞と読者賞を受賞してデビュー。著書に『グッモーエビアン!』『光の庭』など。8月には名古屋を舞台にした短編集の文庫版『ずっと名古屋』を刊行した。
なるほど!
グッときた
もやもや...
もっと
知りたい
30年前のことでした。電車のなかでよく、痴漢に会いました。ある日、丸ノ内線で寝ていると、となりの席の五十代ぐらいの人がしきりに、私の股を触ってきます。何度も振り払ってもやめないのです。今、考えると直ぐに席を立つべきでした。でも、それをせず、池袋についたところ、手を強くくんで、東口交番まで、歩いてつれていきました。警察は、私は、20代後半で、パンツ姿だったので、直ぐには相手にしてくれませんでしたが、相手に尋問し、そして、私に謝りました。大泣きをしながら、謝りました。もう、しませんと、言って土下座しました。たぶん、罪にはならなかったと、思います。警察は私のことを、なかなか信じてくれなかったのは、当たり前の時代だったのでしょう。最初は私が悪いことをしたような、対応でした。人に信じてもらえないことほど辛いことはないですね。がんばってほしいものです。
性被害者です。しばらくはもちろん落ち込んだけれど、普通にその後も沢山恋して笑って日々楽しく過ごして結婚もしてます。自分が受けた理不尽な出来事に負けず、前を向き笑って過ごそうと思ってます。心身共に性暴力を行った山口氏に対し沢山の世の中の女性が呪いをかけます様に。
ありがとう。みんなが思ってること言ってくれて。
元TBS海外支局長の山口敬之は、自分の娘くらいの女性に酒も薬も盛って意識不明にさせてお持ち帰りし一方的に性行為。常習者でしょうと誰もが思った事件。
裁判で敗訴したのは、日本国が山口敬之を悪人と認めたことなのに理解できず、さらに被害者を貶める発言。しかも他人の意見を引用したというような姑息な表現。侮辱罪にならな
この国には 、未だ民主主義が根づいていない、と感じました。車の前輪が民主主義で、後輪は人権とすれば、前進するには、一体に回ることが必要です。人は平等である。性差で差別してはいけません。民主主義革命が必須です。人権もそれに寄り添い、益々強くなっていくことは、必然と思っています。
詩織さんに、神のご加護が、ありますように。みんな、貴女を大切に思っています。これからも、笑ってください。
まったくこの思いがわかります。人それぞれにつらいことがあるでしょう。その思いをかかえながらだれしも明日をむかえます。いつまでも同じ質の辛さをかかえ続けることは到底できません。辛い経験をした昨日を和らげて明日を迎えるには、昨日より以前の日常に戻ることがいいに決まっています。日常には、微笑みもあり、大笑いもあり、これが普通です。
山口さんの発言は、まったく論外としか言いようがありません。
辛いことは、笑ってのり越えるしかない。
「本当に性被害にあった方は、記者会見の場で笑ったり、上を見たり、テレビに出演してあのような表情をすることは絶対にない」
と言うのであれば、妻ある男性が(相手女性の同意のある無しに関係なく)記者会見を開いたりカメラの前に立てるというのは、倫理観もなく恥を知らない常識もない人間だという証拠。そんな男の言うことのどこに信憑性があるのか?と思ってしまう。恥を知らない人間というのはこういう顔をしているのかと気味悪く、苦々しい思いで見ている。
山口氏の奥様はどれだけ恥ずかしく屈辱的な立場に立たされているのでしょう。ゴミ捨てに外へ出ることすらできない、笑ったり上を向くことができないのは本当は奥様なのではないかと想像して可哀想に思う。
心の中は皆同じ、明るく振る舞っている人ほど辛い事を我慢している場合が多いと思う。本人も向き合っている人も普段通りが一番難しい。普段通りに出来る人って素晴らしい。でも世の中がそれを許さない。
打ちひしがれていれば周りは安心するらしい。
山口氏の発言について。
私も性犯罪被害者ですが、今はなんとか立ち直って前を向いて笑っています。
性犯罪被害者は立ち直ってはいけないのですか?
性犯罪被害者は前を向いてはいけないのですか?
性犯罪被害者は死ぬまで精神科に通いクスリ漬けにされなければいけないのですか?
私はそうは思いません。
先日のヤマグチという人物の引用発言は、「性犯罪者の思考そのもの」のように伺え、吐き気がします。もしこの発言が世の中の男性の一般的な思考なのであれば、私はもう一生、全ての「男」という生き物に対し、一切優しくなどすることはないでしょう。
>どんな悲劇に見舞われたとしても日常は続くし、週末には楽しみにしていたコンサートや友人との約束が控えている。ささやかだけれど、そのために生きてると言えるようなこと。突然の事故や卑劣な犯罪者に奪われてたまるものか。
すごく共感します。
辛いことがある中でも冗談を聞いて笑ったりとか、人間ってそういうものですよね。そういう人間の自然な姿や被害者の精神力の強さを自分の加害行為の矮小化に使う犯罪者には恥を知れとしか言いようがないです。
東京新聞を購読しています。素晴らしい記事を発信してくださった記者の方と吉川さん、どうもありがとうございます。山口氏の発言を見て、ひとりの人間の感情や行動を、他人が、ましてや加害者が決めつけるなんてあり得ない、と思っていたところだったので、吉川さんの言葉がとても腑に落ちました。人間の尊厳を守れる社会をめざして、わたしも楽しんだり怒ったりしていきたいです。