娘2人が起立性調節障害(OD)になって 啓発活動を続ける母の思い「普通にこだわる必要なんてない」

起立性調節障害への理解を広げる活動を続ける野沢菊枝さん

 朝なかなか起き上がれなくなる症状が出る「起立性調節障害」(OD=Orthostatic Dysregulation)。自律神経が正常に機能しない疾患で中高生などで発症することが多いが、認知度の低さゆえに理解されないことで苦しむ人もいる。娘2人がODになったことから、この疾患への理解を広める活動をしている東京都中野区の野沢菊枝さんに活動を始めた理由や、ODの子の保護者から寄せられる悩みなどを聞きました。

頭痛に胃痛 立てずにはってトイレへ

―娘さんたちはどのような症状だったのでしょうか。

 長女は小学6年の時に頭痛・胃痛が始まり、原因不明の微熱が数カ月続きました。頭痛外来で「起立性調節障害だろう」と言われていました。仲良しの友人が小学4年生で発症し、その子は1日に何度も失神するタイプだったので、娘と「○○ちゃんは大変だけど、うちは軽症だね」と話していました。

 ところが2016年、中学2年のお正月明けから動けなくなり、3月に新起立試験を受け、正式に診断されました。寝ている時と立ち上がった時の血圧の変化や心拍数、自覚症状などを調べる新起立試験では、立ち上がった直後からの頻脈に加え、起立3分後に急激な血圧の低下、4分後には最低血圧(上が30、下が13)になり、意識が混濁するという結果になりました。いつ倒れてもおかしくない状況で、そこまでひどかったのかと驚きました。

起立性調節障害と診断された高校生の実話を基にした映画「今日も明日も負け犬。」の一場面。野沢さんは映画の上映会なども企画する(©映画「今日も明日も負け犬。」製作委員会)

 次女は中学2年の10月、台風の時に立ち上がることができなくなり、はってトイレに行く状態が2~3日続き、そこからはもう…。「あっ、もしかしたら」と。薬が効かない頭痛など予兆はあったので。翌年の2月に診断されました。

主治医が「1人でも多くの理解者を」

―なぜ病気への理解を広める活動を始めたのですか。

 長女が発症した当時は、今ほどODが知られておらず、周囲は「聞いたことがない」と言う人ばかりでした。根本治療となる特効薬も必ず回復するという治療法もなく、私には治してあげることも代わってあげることもできない。「親としては環境を整えることしかできないな」と。長女が診断された時、主治医が「この病気で大切なのは、1人でも多くの理解者を得ること」と言っていたのがきっかけです。

 PTA会長をやっていたこともあり、診断されてすぐに担任や校長先生に検査結果を見せて相談し、さっそく中学3年の最初の学年保護者会で話す時間をもらいました。娘がODであること、学校に通っていなくても散歩をすること、それは遊んでいるのではなく、治療になることなどを伝えました。

 話を聞いた保護者からは「知らなかった」「話してくれてありがとう」などと声をかけられました。学校側が理解して受け止めてくれたことが保護者や生徒のみなさんの良い空気感にもつながったと思います。

©映画「今日も明日も負け犬。」製作委員会

 私が活動する際には、娘たちに「こういう場でこんな方たちに話してくるね」などと事前に伝えています。なぜ私がそういうことをするのか話しているので、「がんばってね」と応援してくれていますし、「それはみんなが同じようにできることではなくて、ママだからできることなんだと思う」とも。当時は「学校休んでいるんだってね」などと声をかけられるたびに、「ODでね」などと説明していました。時には心ない言葉をかけられることもありましたが、地域のみなさんも温かく見守ってくれていました。

不安や焦りを分かち合える場が必要

―昨年夏ごろからは当事者の保護者の交流会も開いています。

 月に一度だったり2カ月に一度だったり。定員は10人で、10人来ることもあれば、2人の時もあります。都内だけでなく、神奈川などから来られる方もいます。みなさん、なかなか思いを話す場がなく、「周囲にODのご家庭がない」と。どうしていいのか分からないという不安と葛藤があります。

 「学校が理解してくれない」「夫が分かってくれない」「子どもが学校で嫌なことを言われた」など、八方ふさがりというか、保護者自身が頭では分かっているつもりでも、受け止めきれていないこともあります。一番は、子どもが学校に行けていないことへの戸惑いと、いつになったら回復できるのか、将来どうなるのだろうという真っ暗なトンネルを歩いているような不安と焦りでしょうか。

 私の場合は長女と仲良しの友だちが小4で発症して、なんとなく知っていたということと、そのママと親同士も仲が良くて、いろんなことを話したり、共感できたりしたことが良かったと思います。だから講師活動だけでなく、そういった場所が必要だな、と。

症状と配慮 学校にどう伝えれば?

 私からはアドバイスというわけではないですが、「ゴールデンウイーク明けは疲れが出やすいですよ」とか、なぜ水分や塩分をとることを意識するのかなどを伝えたりします。長女は症状がなくなったわけではないですが、自分の目指すことを見つけてマイペースで進んでいるので、そういう話もします。「急がなくても、焦らなくても、諦めなくても、その子のペースで大丈夫ですよ」と。本当に大丈夫ですから。

 学校の理解がないと悩む保護者さんには、担任が分かってくれないなら、養護の先生や学年主任、管理職など別の方向からアプローチしてみることなどを伝えたり、わが家の場合や娘たちの学校がしてくれた対応などをお伝えしたりします。

 みなさん「モンスターペアレントやクレーマーだと思われるのではないか」と心配されます。なので、配慮してほしいことを伝えたり相談したりしながら、「一緒に環境をつくってほしいとお願いするのは、クレーマーでもモンスターペアレントでもないですよ」と話します。

保護者自身も追い詰められないように

 子どもが学校を休みがちになると保護者も学校と距離を取り始め、保護者会やPTA、行事に参加しなくなりがちです。学校生活を送っているお子さんの姿を見たり、他の保護者と話すのがつらいと感じたりする方も。また、子どもがODだと話した時に心ない言葉をかけられたり、批判的なことを言われたりして、心を閉ざしてしまう方も少なくありません。

 そうなると保護者自身もどんどん追い詰められてしまいます。まるで取り残されたような気持ちになりますし、学校の様子も分からなくなり、どんどん距離ができて学校側に何をどこまでどう伝えていいのかが分からなくなります。

写真 野沢菊枝さん

 でも、関わること、伝えることで開ける時もあると思うのです。私は長女が診断された時、次女の小学校でPTA会長をしていました。そのおかげで学校側や地域の方と距離が近かったり、理解して寄り添ってくれる仲間や保護者の方がいたり、生徒たちとも話せたりして、結果的に良い環境をつくってこられたのではないかと感じています。もちろん、それが正しいわけでもありませんし、学校側の理解や対応は管理職によって全く違いますし、ケースによっても違います。どんなに伝えても、理解してもらえず苦しんでいるご家庭も多くあります。

症状も性格も合ったサポートが必要

―職場の理解も大事、と訴えています。

 ODっ子がバイトや就職するという時に、この病気を知る会社(社会)であってほしいということもありますが、実際にODの子をサポートしながら働く保護者も、ODのお子さんの分だけいるので。

 私の場合は長女が発症して数年は症状が重く、寝たきりのような状態の時もあって、朝早くの出勤が難しかったのですが、「業務が終わるのなら定時じゃなくていいよ」と言ってくださって、本当にありがたかったです。でも、会社に居づらくなり辞めた人もいます。また、子どもがなかなか回復せず、それは自分がそばにいないからではないかと責めてしまう保護者もいます。

 子どもによって必要なサポートも違うと思うのです。長女は学校が大好きで、とてもポジティブでマイペース、私がPTA会長をして忙しくしていても大丈夫でした。お互いにそれで良かったというか、わが家で初めてのODで、当時の長女と私にはその距離感がちょうど良く、お互いの性格的にその方が良かった。

 次女は幼稚園のころから周囲の状況がよく見えすぎて疲れてしまうところがあり、たくさん考えて不安感が強い。月に1~2回放課後に学校に行く時も必ず付き添ったりしていました。体調的に外を歩く時は私の腕につかまってゆっくり歩くというのもありますが、症状がそれぞれ違うように、性格によって必要なサポートも全然違うので、そういったことへの理解も必要です。

夫が理解してくれない、どうしたら

―夫がODの苦しさを理解しないと悩む人もいます。

 夫のほか、祖父母に理解されないというお話もよく聞きます。昭和に育った世代は「気合!」とやってきて、当時はODの知識もなく、怠けていると思われたり、なんでも貧血だとレバーを食べさせられたり、そういうふうに育ってきましたよね。だからこそ「自分だってやってきたのに」「そうはいっても、みんなやってきているのに」との思いがあり、余計に認められない部分があるのだと思います。

 ODは遺伝的要因もあるといわれており、うちの夫はそうだったのではないかと思います。でも、心配されるよりも「男なんだからしっかりしなさい」「気合が足りない」「だらしない」としかられ、本人も病気とは思わず、そうなんだと思って必死にやってきた。だから長女が新起立試験を受けた時、血圧が上が30、下が13という数値を見て「そんなことになっているのか」と驚き、頭では理解しても、いざ目の前のわが子を見るとどうしてもいろんな思いが湧き上がってきたのだと思います。

「私自身が宇宙一の安全地帯になろう」

 長女が中学3年のころ、夫の仕事が休みで、家に長女と2人でいる時に「今の状態で普通の生活ができるのか」「高校に行けるのか」などと言うことがあったそうです。「パパにこう言われた」と話してくれるので、娘たちには「パパは、自分が子どものころに理解してもらえずに怒られていたから、なんて声をかけていいか分からないんだと思う。心配な気持ちをうまく言葉にできなくて、自分が言われてきたような言葉になっちゃうけど、わが子を大切に思う気持ちでいっぱいなんだよ」と伝えていました。きっと、娘たちと自分の子ども時代を重ねているのだと思って。

 何より、やっぱり将来が不安なのですよね。高校が決まったら安心したのか、あまり言わなくなったようです。長女を見てきて、長い時間をかけて理解したというか、受け止められたというか。こういう進み方もあるということを認められたのかもしれません。次女が発症した時は、そういうことはなくなりました。親も一緒に成長しているのだと思います。

 親がけんかしてしまうと、子どもは「自分のせいでけんかになっている」と自分を責めてしまいます。親も自分の中で腹落ちしなければダメなんです。なので、そこで余計にイライラしてつらくなるより、まずは私自身が娘たちにとっての「宇宙一の安全地帯になろう」と思いました。「全部受け止めよう」と。

私立高校の説明会で…「ばかばかしい」

―野沢さんはなぜ受け止められたのですか。

 最初からすべて受け止められたわけではないです。葛藤もしました。

 大きなきっかけは、長女が中学3年の夏、自宅近くの私立の全日制高校の説明会に参加した時のことです。個別相談で、欠席日数が多いと受験できない規定があるけれど、けがや病気など正当な理由があれば、その規定が免除になる可能性があるということについて「うちはODなのですが」と伝えたところ「それは正当な理由と認められません」と間髪入れずにぴしゃり。その時に「なんてばかばかしい、こっちから願い下げだ」と思いました。「小学校、中学校、高校には必ず行く、全日制を3年で卒業するという世間の普通にこだわることに意味がないな」と。景色が変わる思いでした。

映画の撮影風景(©映画「今日も明日も負け犬。」製作委員会)

 これは私がPTA活動をしていることの根底にもあるのですが、私自身が小学生の時にいじめられ、毎日死ぬことを考えていた時期がありました。その後、良い先生にも恵まれたのですが、高校生になった時、小学校からの友だちにある日突然「あの時ごめんね」と謝られました。小学生時代、私が風邪で休んだあとに登校した日、先生が「みんなで無視しましょう」と言ったそうなのです。

 母親にそれを伝えたら「そういえばあのころ、テストで合っているのにバツがついていたわね」と。先生に確認してはいないので真実かどうかは分かりません。でもその時に思ったのは、その友だちがずっと悩んでいたということは事実だということ。そして親になった時、「わが子に同じ思いをさせたくない、してほしくない」と強く思いました。学校の閉鎖的なところを変えていかなきゃいけない、と。そして「わが子を守るためには学校や地域の子も守らないと成り立たない。わが子だけがよければいいなんてありえない。自分のできる範囲でやろう」とPTAに積極的に関わりました。

救われた言葉「ゴールはここじゃない」

 どんな理由でも「死にたい」とどの子にも思ってほしくないし、もしそう思っていたらと考えただけで耐えられません。でも、ODを理解されなかったり、「みんなと同じ普通でありたい」、そう思って、でもできなくて、つらくて苦しくて「死にたい」と思っている子もいっぱいいます。けれど、今は親世代が育ってきた価値観や常識とは違う道、なかった道がたくさんあります。「学校や、世間の普通にこだわる必要なんてないよ」と伝えたいです。

 長女の主治医が「君のゴールはここじゃない」と何度も言ってくれました。「ここ」は当時では高校受験のこと。「それがすべてじゃない。学校に行くことだけが正しいわけでもないし、学校を休むことは悪いことじゃないよ」。「高校に行かない選択肢だってあるよ」とも。

 正直なところ、本人は学校に行きたいという気持ちが強かったので、私はなんて残酷な現実なのだろうと思っていたのですが、長女は安心したそうです。「そういう選択をしてもいい、勉強なんていつでもできると思えてホッとした」と。長女は単位制の定時制高校を5年かけて卒業し、ODになった経験から「子どもに寄り添えるカウンセラーになりたい」と大学で心理学を学んでいます。

 次女は長女と同じ高校に進みました。ゴールデンウィーク明けに疲れが出て体調が悪化して、まるっと1週間お休みですが、それも想定内。本人もお姉ちゃんを見てきたから焦らずに過ごせていると思います。体調には波があるもの。一喜一憂せず、どんな状態でも大切なわが子であることに変わりはありません。

―活動名の「Kiku-Ne」に込めた意味は。

 「きく」は、聞く・聴く・効く・訊く・利く、「ね」は、根・音・輪廻(りんね)の廻の意味を掛け合わせており、当事者や家族の声を聴く、体調や症状に効くなどのさまざまな「Kiku」と、理解が根を広げる、みんなの声が音となり、たくさんの「Ne」が合わさって、より多くの子どもや家族が生きやすく、育ちやすい社会になってほしいとの思いを込めています。私の名前の「菊枝」にもかけていて、ライフワークとして取り組んでいきたいと思っています。

 「急がず、焦らず、諦めず、自分らしく、大丈夫」。それがKiku-Neからのメッセージです。

◇野沢さんが上映会を企画した映画「今日も明日も負け犬。」の予告編

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  • kyon says:

    リアルなご経験を話してくださりありがとうございます。普通、を押し付ける世の中…いつのまにか、無意識に?子どもに、それを求めがち…
    また自分もそれを押し付けられてきたのかも…
    悪意のない、それぞれが尊重される社会にしていかねば…まずは足元から…

    kyon 女性 50代

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