横浜銀蝿Johnnyさん 優等生とは真逆でも、母は夢や人格を一度も否定しなかった

草間俊介 (2021年5月9日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

(五十嵐文人撮影)

小5で心臓の病 病室のラジオから洋楽

 音楽に興味を持ったのは小学5年。心臓の病気で3カ月間入院し、病室のラジオから流れるアメリカンポップスに心ひかれました。退院後も5年間、運動を止められ、体育の授業は見学でした。両親が運動できない私をおもんぱかり、フォークギターを買ってくれました。

 中学3年の時、父が亡くなりました。1932(昭和7)年生まれの母は、食べものに困らない裕福な寺に生まれた、お嬢さま。それまで外で稼いだ経験はありませんが、一家を支えるため働き始め、私と弟、父方の祖父母の面倒を見ました。大学にも行かせてくれ、とても苦労したと思います。

 私は高校で喫煙が見つかるなど優等生とは真逆。母は学校から年に1~2回は呼び出されていました。大学に入ると、今度は車で夜な夜なドライブ。やめろとは言われませんでしたが、世間体からか「明るくなる前には帰っておいで」と言われてました。

デビュー報告 まさかの「がんばって」

 大学4年の時、高校の同級生らと4人で横浜銀蝿(ぎんばえ)のデビューが決まり、母に何と話そうか悩みました。「大学は卒業するから1年間だけやらせて。だめだったら働く」とおそるおそる頼みました。母は「がんばってやりなさい」と。支持されるとは思っていなかったので、びっくり。デビューしたら、「うちの息子はすごい」と近所に話してまわり喜んでいたようです。

 母から「おまえなんか、だめ…」とか、夢とか人格とか、否定された記憶は一度もありません。すべて理解し、肯定してくれました。高校で喫煙で呼び出されても、さすがに叱られはしましたが、否定はされません。自分が2人の子を持つ親になり、これって「すごい!」と気が付きました。母のように子に接しているだろうか。時々考えさせられます。子を持って知る親の恩ですね。

 高校の同級生といえば、入学した日、教室で隣に座っていた女子生徒が妻です。

あの母でなかったら、今の自分はない

 2018年に銀蝿の担当プロデューサーが亡くなり、しのぶ会に結成当時のメンバーが顔を合わせました。「2020年は結成40周年だから」と再結成の話が出て、20数年ぶりにギターに触れました。猛練習すると「楽しい、やれるぞ」と自信もよみがえりました。ステージには、かつてのファンらが来てくれて感動。妻も「昔と違うけど、今は今なりに、かっこいい」と。

 体育の見学を強いられた日々など、不運を嘆いたこともあります。でも人間万事塞翁(さいおう)が馬。病気にならなかったら、ギターを買ってもらわなかったら、そして、あの母でなかったら、今の自分はあり得なかったと思います。

Johnny(ジョニー)

 1958年神奈川県生まれ。本名・浅沼正人。ロックバンド「横浜銀蝿」のギター、ボーカル担当。1980年9月「横須賀baby」でデビュー。1983年12月解散。ソロ活動を経て、1988年にレコード会社に入社して制作者に。結成40周年記念として、今年末までの期間限定で「横浜銀蝿40th」を結成。活動情報などは公式サイトで紹介している。

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