経済ジャーナリスト 荻原博子さん 小学生の姉妹を置いて父がいきなり…!?

(2018年6月10日付 東京新聞朝刊)
子育て世代がつながる

家族のこと話そう

写真 荻原博子さん

父の思い出を語る荻原博子さん(川上智世撮影)

中国の収容所から脱走、運よく日本へ

 長野県の浅間山の麓で、両親と妹、弟、父方の祖父母の七人家族で育ちました。毎年、野沢菜を冬になる前に漬物にしていました。一家総出で山のような野沢菜を湧き水で洗うんだけど、それはもう、手がちぎれそうなほど冷たくてね。みそやお焼きも家でつくっていました。 

 祖父母も両親も教員でしたが、父は私が小学生くらいのころに物理の先生から実業家に転身し、電子部品の製造工場を経営していました。

 私はとりわけ、父の影響を大きく受けて育ちました。父は戦時中、戦地へ赴き、中国で捕虜になった。収容所から脱走して中国大陸を逃げ惑い、運良く最後の引き揚げ船に乗れて日本へ帰りつきました。逃げている間、昼間はお寺の軒下に隠れ、夜になるとお墓のお供え物を食べて命をつないだそうです。苦しい中を生き抜いたので「人生は厳しい」ということを常に教えようとしていましたし、しつけにもすごくうるさかった。反発した時期もありましたが、今では気持ちが分かります。

中学生からは放任「好きに生きろ」

 そんな父ですが、意外と抜けているところもあって。小学6年生のとき、父と2年生の妹と3人で東京へ出掛けたことがありました。初めての東京でワクワクしていたんですが、突然、父は「仕事がある」といなくなり、妹と2人にされたんです。小学生2人きりですよ。右も左も分からず、お金は持っていたので長野に帰ることにしたけれど、違う電車に乗ってしまって。姉妹だけで家に帰ると、母が大騒ぎでした。

 子どものころは厳しく育てられましたが、中学生になると父に呼ばれ「もう中学生なんだから、全部自分で判断して好きなように生きろ」と言われた。うそじゃないかと思いましたが、それっきり放任に変わりました。

 私は子どものころから本が好きで、朝から晩まで読んでいました。そのうち物を書く仕事に就きたいと思い、今に至ります。中学以降、本当に好きなことしかやってこなかった。経済の本でも新聞のコラムでも好き放題に書いています。人間、好きなことしか続かないし、好きなことをしていると幸せなのよね。

 昨年、父が97歳で他界しました。本人も残念だったろうし、私もすごくショックでした。もっと私を見ていてほしかった。仕事一筋で、工場の資金繰りが苦しかったときもめげず、強かった。父のような根性はないですが、私も毅然(きぜん)として生きていきたい。今、父が信条としていた「信は力なり」という言葉が心に残っています。信念が自分の力になる。そう思っています。

荻原博子(おぎわら・ひろこ) 

1954年5月、長野県生まれ。経済事務所に勤務した後、1982年からフリーの経済ジャーナリストとして新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどで活動。著書に「投資なんか、おやめなさい」(新潮新書)「老前破産」(朝日新書)など多数。

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