医師・文筆家・歌手の海原純子さん 父が45年も一人で守り通した秘密

(2021年5月30日付 東京新聞朝刊)
子育て世代がつながる

家族のこと話そう

写真 原純子さん

(川上智世撮影)

ニュースに怒る父 好きではなかった

 横浜の下町で生まれ育ちました。父は耳鼻科の開業医でしたが、自宅兼医院はお隣との隙間がほぼない、長屋のような建物。近くを電車が通るたびに、「地震?」と思うくらい揺れます。枕元に靴を置いて寝ていたのは、火事や泥棒を警戒してのこと。「医者のお嬢さま」とは程遠い暮らしでした。

 父は忖度(そんたく)ゼロの人で「ダメなものはダメ」。慕う人もいましたが、敬遠されることも多かったです。例えば「くしゃみが止まらない」と訴える患者に、「そもそも着ている服の化学物質が…」と怒り、生活指導を始めてしまうなんてことも。

 晩酌中、ニュースを見ては何かに怒っていました。権力に不信感を持ち、不公平への怒りは強かったです。元看護師だった母とも暮らし向きをめぐり口論が絶えず、子ども心に「なんて生き方が下手な人だろう」と思いました。父を好きとか尊敬する気持ちは全くなかったですね。

69歳で死去 遺書に書かれていた告白

 「親はいつまでいるかわからない。一人で生きていけるようになれ」と肺を悪くしていた父が言うので、生計の立つ医師を選びました。「お金がないので現役で国公立」と言われ猛勉強。当時は国公立と学費が変わらなかった私立医大に現役合格しました。在学中に父の病気が悪化し、収入が途絶えました。私のジャズ歌手のスタートは、学費を賄うためのバイトでした。

 父は1990年、69歳で亡くなりました。遺書に、実は広島の2次被爆者とありました。当時、中国地方へ疎開中に広島への原爆投下を知ってボランティアで入り被爆。母も全く知らなかった。

 父の体調や性格、自立の教え。いろんなことが腑(ふ)に落ち、初めて父を理解しました。権力への怒りも、「通りすがり」の被爆のため、被爆者手帳を受けられなかったことが大きかったようです。

 父と大学の同窓だった教授から「彼は優秀だったが、病気で研究を諦めざるを得なかった」と聞きました。私が学位を取った時、とても喜んでいたのを思い出しました。

好きなことをあきらめずに済んだのは

 私自身も「被爆2世」。生まれつき左右の視力に差があったり、小学校時代に教室のワックスがけ中に重いアレルギー反応を起こしたり。振り返れば、思い当たることは多々ありました。

 進路選択の際、本当は物書きになりたいと思っていました。今、ジャズも含め、好きなことを全部仕事にできて幸せ。私が当時、被爆のことを知っていたら、多くの可能性を自らあきらめていたかもしれません。45年間、一人で秘密を守り通した父。同じ重荷を娘に背負わせたくないという強い意志を感じずにはいられません。

海原純子(うみはら・じゅんこ)

 1952年、横浜市生まれ。東京慈恵会医大卒。心療内科医。「こころの深呼吸」(婦人之友社、雑誌『婦人之友』で連載中)など著書多数。医大在学中にジャズ歌手としてデビュー。最新アルバムは「RONDO」。

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