日本原水爆被害者団体協議会 事務局長 木戸季市さん 原爆を勉強し、結婚決意してくれた妻

長田真由美 (2021年8月1日付 東京新聞朝刊)
子育て世代がつながる

家族のこと話そう

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5歳のときに被爆

 5歳の時、長崎市の自宅前で被爆しました。1945年8月9日午前11時ごろ、爆心地から2キロの場所。配給所にそうめんがあると聞き、母や町内のお母さんたちと向かうところでした。「久しぶりのごちそうだ」と喜んでいたら、飛行機の音がして、見上げた瞬間にピカッと光り、爆風で吹き飛ばされました。

 母は顔一面と胸、私は顔半分をやけどして、防空壕(ごう)まで母に抱かれて逃げました。母はすぐに顔が腫れ上がり、目が開けられなくなった。翌日、防空壕を出ると、街が消えてなくなり、亡くなった人がごろごろしていました。

海軍の軍医がくれた薬に救われて

 私は8人きょうだいの末っ子。1番上の姉とは19歳離れています。家族で被爆したのは両親と姉3人、私の6人。無事だった市内の知り合いの家に避難しましたが、敗戦直後、女性は暴行されるといううわさが流れたので、動かせない母と付き添いの父を残し、姉3人と私は母の実家がある鹿児島へ向かいました。

 ただ、長崎から満員電車に乗り、普段は数時間で着くはずの長崎県・諫早まで半日かかりました。これでは鹿児島に着く前に誰か死ぬかもしれない。同じ死ぬなら、お父さんお母さんと一緒の方がいいのではないかと思い、諫早から長崎に引き返しました。

 その途中で出会った海軍の軍医が私の顔を見て「いい薬を持っている」と治療してくれました。母もやけどしていると言ったら、残りの薬をくれた。母の胸にはケロイドが残りましたが、2人とも顔はやけどの痕がなくなりました。周囲の人にも助けられ、自分は恵まれていた。だから苦しんだ他の被爆者に申し訳ない気持ちもあります。

子どもに伝えるときは、一人一人の発達に応じて

 私は29歳の時から岐阜の大学で歴史などを教えていましたが、若い頃は、被爆者だと語ることはありませんでした。隠すつもりじゃなかったけど、言いづらかった。33歳で結婚した妻にも言っていませんでしたが、妻は結婚前から知っていて、原爆のことを勉強した上で結婚を決意したと聞きました。一人娘は幼稚園の頃から、被爆に関する展覧会や映画によく連れて行きましたが、後から「もっと大きくなってから教えてくれたら良かった」と言われた。子どもに被爆体験を話すときは、一人一人の発達に応じて話すことが大事だと思います。

 核を巡る世界の状況を見れば、これからの若い世代には、被爆者になる危険性があります。被爆者になるかならないか、皆さんがそれを決める当事者です。被爆者運動は自分のためじゃない。再び被爆者をつくらない、人類を救う運動です。その思いを妻に、娘に、全ての人に伝え続けていきたいです。

木戸季市(きど・すえいち) 

1940年、長崎市生まれ。69~2003年、岐阜聖徳学園大短期大学部に教員として在職し、現在は名誉教授。1991年、岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)を結成し、事務局長に就任。2017年から日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局長も務める。

 

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