俳優 水島かおりさん 破天荒な父だったが、結局「看取ってよかった」と思う

海老名徳馬 (2022年10月30日付 東京新聞朝刊)
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水島かおりさん(浅井慶撮影)

カット・家族のこと話そう

お金は丼勘定 夫婦げんかばかり

 小さい頃は父を毛嫌いしていました。土建の親方でお金は丼勘定。しょっちゅう帰ってこなくなって、そのたびに家具が差し押さえられて。初めて会った記憶は幼稚園に入る前。その前はだいぶ長く蒸発していました。

 母はさばさばしていて口が達者で、1週間に1度は夫婦げんか。ものが飛んで取っ組み合って「どっちにつくか選べ」と。でも学校から帰ってくると、父や働く職人さんたちと、わいわい飲んでいるんです。けんかか仲良しのどちらか。私や2歳上の兄からしたら、振り回されて毎日事件が絶えない。本当に別れてくれ、2人でやってくれよって思っていた。高校生の頃、母が三面鏡にため込んでいた離婚届を床に包丁で刺して「はんこ出せ。私が押す」と言ったこともあります。

母のがんで分かった、父の気持ち

 私が芸能界に入ってアイドルを辞めた18歳の頃に母が体調を崩しました。大腸がんで余命1年半。私は母に何年も反抗して口をきかない状況でしたが、偶然知ってからは必死でした。母は私をテレビで見るのが好きだったので、何でもいいから出たいと事務所に頼んで、できるだけ母と話をするようにしました。

 父は母が死んでしまうという事実に向き合えず、現実逃避がすごかった。入院費が足りないのに働かずに飲んだくれて、家で泣いていた。今思うと、父にとって母がすべてだったんだと思います。体の半分以上をもぎ取られちゃったような、何をしているか分からない状態だったんだろうなと。

 母が亡くなった後に父がまた蒸発しました。再会は7年後の27歳の時。突然電話がかかってきて、最寄りの駅で会いました。絶対にいろいろ言ってやろうと思ったら、小さくなっておじいちゃんみたいで。苦労したのがありありと見えて、改札の前で立ったまま2人で泣きました。

父もがん 2人で死に向き合って

 その父も私が32歳の時に咽頭がんになり、2年持つかどうかと言われました。過去に裏切られた記憶はいつも頭にあって迷ったけれど、少しでもそばにいてあげたいと、手術の後に一緒に住んで世話をしました。しゃべれなくなって筆談でたくさん話しました。「棺おけに入るのが怖い。ドラマで入ったことあるか」「ある。すっごい怖かった」って。2人で死に向き合った感じ。亡くなったのは告知から1年半後でした。

 母が闘病していたときに、こっそり、がんの本をたくさん読んでいたのを見つけました。1人でずっと耐えていたことを思い出して、父も1人だと怖いんじゃないかと。ここで放っておいたら、なんでみてあげなかったんだという悔いが一生続くだろうと思った。悔いだらけだった母の時と違い、やることはやったという思い。父を看取(みと)ってよかったと思っています。

水島かおり(みずしま・かおり)

 1964年、東京都出身。1980年に俳優デビューし、多くの映画やドラマに出演。今年9月に半自伝的小説「帰ってきたお父ちゃん」(講談社)を刊行。夫の長崎俊一氏が監督し、自身が矢沢由美の名前で脚本を執筆して、出演もしている映画「いつか、いつも……いつまでも。」が今月、公開された。

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