漫才師 大谷ノブ彦さん 5歳で父が蒸発、育ててくれた母にようやく「ありがとう」

中山敬三 (2022年9月25日付 東京新聞朝刊)
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大谷ノブ彦さん(中森麻未撮影)

家族のこと話そう

よその家庭と比べて悩み、友を避けた

 5歳で父が蒸発し、母と弟と僕との3人暮らしになりました。週末は、ばあちゃんの家に預けられる日常でした。

 母は昼間保険の仕事をして、夜はスナックでママとして働いていました。当時は、母の夜の仕事をとても恥ずかしく感じていました。家も学生が住む寮のようなところだったので、友だちから「家で遊ぼう」と言われると、いったん「よし行こう」と答えて、道をいくつも曲がって、友だちをまくみたいなことをやっていました。

 よその家庭と比較して「なんで自分だけ」と思い悩んでいたように思います。スナックの仕事を始めた母が、どんどん激情型の人間になっていくように見えたことにもなじめず、どう距離を取ればいいのか悩んでいました。

 中学生の頃、家族3人でラーメン屋に居たら、知り合いがたくさん入ってきたことがありました。自分たちが自転車で来ていることも恥ずかしくて、ずっとうつむいていたら、母に「顔を上げなさい」と注意されました。家族で好きなものを食べに行くなんてとてもすてきなことなのに、当時は楽しむ余裕がありませんでした。他人と比べてしまうことで、苦しみから逃れられないんだということに気づいたのは年を重ねてからです。

リスナーに後押しされ、2人で温泉へ

 「お直し」という落語が大好きで、なんで自分はこの噺(はなし)に惹かれるのだろうかと考えたことがあります。下働きの男におごってもらった鍋焼きうどんで花魁(おいらん)の気持ちがほだされる場面と自分の思い出が重なりました。営業開始前の母のスナックで弟と夕食を食べていたのですが、母がよくつくってくれたのが鍋焼きうどんでした。冬の寒い日に、うどんで体を温めて、弟と手をつないで家へ帰っていました。母への感謝の気持ちに欠けていたと今さらながら思いました。

 ラジオ番組で、男性は感謝の言葉を口に出して言わないことが多いと話題になり、もっと「ありがとう」や「(料理が)おいしかった」と言おうという話をしたら、リスナーから「あなた自身はどうなの」という反応がありました。これがきっかけで、3年前、母と2人で別府温泉(大分県)に行きました。一緒に、テレビの漫才番組を見て、昔話をしました。僕が生まれる前の話は、それまで知らないことばかりでした。リスナーと約束した「母と手をつなぐ」ことも実行できました。

 背中を押してくれたリスナーに限らず、今まで知らなかった別の自分に会わせてくれる「他者の力」のすごさを、しみじみ感じています。

大谷ノブ彦(おおたに・のぶひこ)

 1972年、大分県佐伯市生まれ。1994年、中学時代の同級生大地洋輔さんと漫才コンビ「ダイノジ」を結成。プロ野球、音楽などの該博な知識を生かした執筆活動も。著書に「ダイノジ大谷ノブ彦の俺のROCK LIFE!」「生きる理由を探している人へ」(作家・平野啓一郎さんとの共著)。CBCラジオ「ドラ魂キング」「大谷ノブ彦のキスころ濃縮版」に出演中。

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