イラストレーター 中山尚子さん 私の才能を育て、最後まで応援してくれた母

有賀博幸 (2023年1月5日付 東京新聞朝刊)
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イラストレーターの中山尚子さん(中森麻未撮影)

カット・家族のこと話そう

学費・交通費 全て母の店の稼ぎから

 三姉妹の末っ子で、幼い頃から絵を描くのが好きでした。自分では覚えていませんが母の記憶では、お小遣いでわら半紙を買っては、絵を描いていたそうです。

 父は衣料品の行商で一家を支えていましたが、小学4年生のとき、母が地元で衣料品店を開きました。洋裁ができたので仕立てや直しの仕事もあり、経営は徐々に軌道に乗りました。それをいいことに元来、自由気ままな性格の父は行商をサボるようになり、お酒も過ぎて…。家族はだいぶ泣かされました。

 決して裕福な家ではありませんでしたが、母には絵の道を希望する私の力になりたい、との思いがあったのでしょう。名古屋のデザイン専門学校への進学を決めると、学費も教材費も交通費も、全て店の稼ぎから出してくれました。

母と姉に子どもを見てもらった5年半

 25歳でデザイン事務所を辞めて独立、2年後に結婚し、長男の出産と同時に拠点を名古屋から岐阜に移しました。この頃に手がけていた「隠し絵」のシリーズが、企業のカレンダーに採用されて大人気に。半年先まで仕事が入り、毎日描かないと注文をこなすことができない状態でした。

 当時、0歳児保育なんてありません。6カ月の長男を連れ、仕事道具一式持って毎日、車で40分前後の長姉と次姉の家、母の店を順繰りに訪れ、子どもの面倒を見てもらいました。私はその間、長姉の家では台所の食卓机で、次姉宅では子供の勉強机、母の店ではミシン台の上でひたすらイラストを描く。次男が保育園に入るまで、こんな生活が5年半続きました。3人の協力がなかったら、一番大変な時期を乗り切ることは到底無理でした。感謝しかありません。

「絵の仕事を」結婚時の約束守った夫

 母は、父が69歳で亡くなった後も店を続け、2017年に87歳で亡くなりました。長姉からもらった遺品のファイル帳に、私の個展を紹介した新聞記事や、毎年私がデザインし、クリスマスに送っていたモロゾフのチョコレートの袋が取ってありました。生まれ持った才能を大事に育て、最後まで応援してくれていたんですね。母が現役で働いた78歳まであと10年。それまでは、頑張って絵の仕事を続けようと思います。母の背中は今の私の目標でもあります。

 夫のことを少しだけ。私と同じ1980年に独立し、脱サラで園芸業を始めました。200坪の温室から始まり、今では施設面積4000坪、従業員50人の会社に成長しました。結婚時にした「絵の仕事はずっと続けさせて」という約束を40年間守り、支えてくれました。結婚時の約束なんて、大抵は守られないものですが…。大したものです。

中山尚子(なかやま・ひさこ)

 1954年、岐阜県恵那市生まれ。日本デザイナー学院(現同芸術学院)卒。北村薫さん、夏樹静子さんらミステリー小説や科学系新書などの装画を約200冊手掛ける。洋菓子メーカーモロゾフのクリスマスパッケージデザインを98年から25年間担当。絵本「土神と狐(きつね)」(宮沢賢治作)などを出版。岐阜県瑞浪市在住。

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