パラ五輪メダリスト 新田佳浩さん 「左腕を切って孫に付けてほしい」自分を責めた祖父のために

(2023年7月16日付 東京新聞朝刊)

家族のことについて話すパラ金メダリスト新田佳浩さん(五十嵐文人撮影)

カット・家族のこと話そう

3歳の時、田んぼでコンバインに…

 両親と5歳上の姉、1歳下の妹、祖父母の7人家族でした。両親は共働きで、幼い頃は祖父母が面倒を見てくれました。

 3歳のとき、田んぼで遊んでいて、祖父が運転するコンバインに左腕を巻き込まれ、肘の下から切断。片腕がないのでバランスが取りにくく、最初は歩くのもふらついていました。でも両親は将来困らないように、甘やかさないと決めたそうです。自分でできることは自分でするよう、厳しく育てられました。

 小学校に入ると、できないことが多くて泣きながら帰る日々。すると、祖父母はどうしたらいいか、一緒に考えてくれました。例えばドッジボールで一度ボールをつかんでも、左腕からこぼれ落ちてしまう。だから何度も何度も練習をして。一度つかむ感覚が分かればできるようになりました。そうやって、人より何倍も努力して工夫すればいいと教えてくれました。

成長した姿を見せて、安心させたい

 スキーを始めたのは、事故の翌年です。父がスキー板を買ってきて、「やるぞ」と。岡山県の山あいで暮らしていて、小学校に入るとスキー教室があったので、滑れるようになってほしかったようです。毎週のようにゲレンデに行き、最初はうまくできないので嫌でしょうがなかった。繰り返すうちに片腕でもうまくストックを使えるようになって面白くなりました。

 小学3年からはクロスカントリースキーにのめり込み、中学生のときは県代表として健常者の全国大会にも出ました。片腕の選手がいたと聞いた関係者にスカウトされ、17歳のとき、長野パラリンピックに初めて出場しました。

 大会後に父から、私の左腕のことで、祖父が自分を責めていると聞きました。「左腕を切って、孫に付けてほしい」と病院で懇願したそうです。祖父に重荷を背負わせてしまった、成長した姿を見せて安心させたいと、金メダルが目標になりました。4度目の2010年のバンクーバーで初めて金メダルを取り、祖父の首にかけることができました。その2年後に亡くなりましたが「もう大丈夫だよ」と伝えられたんじゃないかな。

工夫と努力と進化 祖父母のおかげ

 これまで競技を続けてきて思うのは、現状維持は退化だということ。常に新しいことに挑戦し、進化し続けないと強くなれません。幼い頃から片腕ではできないことを工夫と努力で乗り越えてきた経験があったからこそ、やってこられた。いまの自分があるのは、祖父母のおかげです。

 現在は競技が縁で知り合った3歳上の妻、中1、小4の息子2人と暮らしています。2018年の平昌(ピョンチャン)大会は現地に来てくれて、金メダルを取った瞬間を見せることができました。「お父さんはパラリンピックに出ているんだよ」と、友達に自分から話してくれるのはうれしいですね。年齢的に大変ですが、挑戦し続ける自分の姿を感じてほしいです。

新田佳浩(にった・よしひろ) 

 1980年、岡山県出身。3歳の時、事故で左腕を切断。パラリンピックは、クロスカントリーで98年の長野から7大会連続出場した。日本選手団主将を務めた2010年のバンクーバーは2種目で金メダルに。冬季パラで日本人で初めて同一大会複数の金メダルを獲得した。2018年の平昌では金、銀のメダルを得た。

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