俳優 市毛良枝さん あんなに反抗したのに、結局は両親の愛情の中にいる

有賀博幸 (2022年9月18日付 東京新聞朝刊)
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市毛良枝さん(中村千春撮影)

家族のこと話そう

「あなたたちがいなきゃ、いい役者に」

 医者だった父は、伊豆の日赤で院長をした後、請われて地元で耳鼻科の開業医をしていました。クリスチャンで、娘をミッションスクールに入れるのが夢。私は「中学からは東京に行くんだよ」と言われて育ち、自然に中高一貫の私立女子校に入りました。遅くに生まれた子で、行儀や礼儀には厳しくても根っこは甘々。毎日のように手紙が届き、愛されている、という実感がずっとありました。

 それが役者になってみると、周りは風来坊みたいな人ばかり。私は親の愛情にどっぷり漬かり、2人の兄からもかわいがられ、溺れそうなくらい。親に向かって「あなたたちがいなきゃ、いい役者になったかもしれないのに」とすごく反発しました。ひどいことを言ったものです。

 30年以上前ですが、父が84歳で亡くなった際、生前の希望通り、献体をしました。解剖後、父の担当医に結果を報告に行ったときのこと。先生は大の山好きで、半ば社交辞令で「今度、私も誘ってくれませんか」と言ったら、「いつにしましょうか」と。バタバタと日程が決まり、(北アルプスの)燕(つばくろ)岳から常念岳まで2泊3日で縦走しました。「山は素の自分でいられる」とドはまりし、40歳にしてがらっと人生が変わりました。これも父が残してくれたものかなって思うんです。

介護うつの後、99歳の母と海外旅行へ

 母は6年前に100歳と10カ月で亡くなりました。医者の妻として家庭を守る昭和っぽい母でしたが、父が私の学費稼ぎもあり、60歳過ぎで船医になると、父不在の生活にも楽しみを見つけて。父の死後も1年ほどは悲しそうでしたが、その後は再び、旅行に、趣味の手仕事にと、充実した老後でした。90歳前に脳梗塞を発症後も、人生を楽しむ姿勢は変わりませんでした。

 母の介護が必要になったのは、私が50代半ばで仕事が一段落し、自分好みの山登りをと思っていた頃でした。友達みたいな親子で、「私が頑張るしかない」と仕事以外は病院に通い詰める日々。退院後は自宅でみていたのですが、母が再び軽い脳梗塞で入院したとき、突然不安に襲われました。「この人がいなくなったら、私はどうなってしまうんだろう」。介護うつでした。頑張り過ぎたんです。

 それからは、周りにたくさん助けてもらい、自分の時間をつくりながら介護し、車椅子の母を99歳まで海外旅行へ連れて行きました。最期まで自分で楽しみを見つけてくれていたので、亡くなったときは「良かった。ありがとね」という気持ちでした。

 2人を見送って思うのは、回り回って、結局は親から与えられた愛情の中にいるということ。若いとき、あんなに反抗したのに。親の影響って大きいですね。 

市毛良枝(いちげ・よしえ) 

 1950年、静岡県生まれ。文学座付属演劇研究所などを経て71年デビュー、「嫁姑シリーズ」で人気を博す。40歳から登山を始め、アフリカ最高峰キリマンジャロ登頂も。岐阜・可児市文化創造センターalaで開幕の舞台「百日紅(さるすべり)、午後四時」で主演(9月26日~10月2日)。以後、愛知・大府(10月8日)、豊田(10月9日)、東京・吉祥寺(10月20~27日)、石川・能登(10月29~30日)で公演がある。

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  • 吉田ナオキ says:

    市毛さんは小さい子どもの頃テレビで見ていつもニコニコしている人だなぁと感じて見てました。

    吉田ナオキ 男性 40代
  • さち says:

    主人が脳梗塞で都内の病院でリハビリ入院していました.朝8時から 夜10時まで 付き添ってリハビリを見守っていました.そんな日々 優しげで穏やかな お母様とお嬢さんらしき方のリハビリを目にすることがありました.しばらくして その方が 市毛さん親子でいらっしゃることに気づきました.お忙しい方でしょうに良くお通いになっていたこと思い出します.あの目が澄んだお母様100歳過ぎまで お元気だったんですね.お嬢様との触れ合いが 幸せなご長寿に繋がったんですね.懐かしい。

    さち 女性 70代以上

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