歌手 芹洋子さん 事故で生死の境をさまよったときも、歌と家族の存在が心の支えに

河野紀子 (2023年10月29日付 東京新聞朝刊)
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家族について話す歌手の芹洋子さん(須藤英治撮影)

カット・家族のこと話そう

歌うことが好き 母の影響

 物心ついたときから、歌を歌うことが好きでした。学校の音楽教師だった母の影響が大きいですね。いつも音楽を聴かせてくれて、私にも同じ道に進んでほしかったようです。でも、私は学校の枠の中に収まるのは嫌でした。

 小学生になると、合唱コンクールに出て入賞。民放テレビの歌番組でも歌を披露しました。当初は歌手を目指すことに反対していた父も、入賞して賞金をもらうと喜んで、応援してくれるようになりました。

 いろんなレコード会社からお誘いをもらって、高校卒業と同時に上京してデビューしました。まずは名前を覚えてもらうために、コマーシャルソングを中心に活動。これまでに700曲以上を歌いました。

 NHKの歌番組にレギュラー出演することが決まったときは両親が喜んでくれました。けれど、放送の2日前、母は子宮がんで42歳の若さで亡くなりました。晴れ姿を見せることができなかったのは残念ですが、少しは安心させることができたのかな。その後は全国各地でコンサートに呼ばれるようになりました。

娘が小学3年生だったある日…

 30歳のとき、所属プロダクション社長の夫と結婚。翌年に長女を出産しました。多忙な時期で、妊娠9カ月まで仕事をして、産後は半年で復帰。仕事をする姿を見てもらうことは大事だと思って、幼い娘を連れて仕事場へ行きました。リハーサル中などは、バンドの仲間が娘と遊んでくれて、みんなで協力して子育てをしている感じでしたね。

 娘が小学3年生だったある日、事故でバイクにはねられて頭を強く打った私が、生死の境をさまよったときも、歌と家族の存在が心の支えになりました。1週間後に意識が戻った後、寝たきりで体が動かず、記憶障害で持ち歌をすべて忘れていました。ただ、1カ月後にはコンサートがあり、病院で日中はリハビリ、夜は歌の練習に励む日々。娘には病状を詳しく知らせませんでしたが、テレビや週刊誌の報道で重病だと感づいていたようです。

「お母さんは大丈夫だよ」

 ようやく面会許可が出て会ったとき、「心配かけてごめんね。家に帰ったら、炊き込みご飯のおにぎり作るね」と約束しました。頭に包帯を巻いたままの痛々しい姿でしたが、お母さんは大丈夫だよと伝えたかったからです。

 その後、無事にコンサートは終了。仕事で全国を飛び回る日々に戻りました。6年前に二人三脚で仕事をしてきた夫が亡くなってからは、娘がマネジャーとして切り盛りしてくれています。コロナ禍でコンサートなど全てなくなり不安でしたが、ようやく再開し始めました。歌を通して心の触れ合いを大事にしてきたので、これからも歌でご縁をつないでいきたいと思っています。

芹洋子(せり・ようこ)

 1951年、大阪府出身。1970年からNHKの歌番組「歌はともだち」にレギュラー出演し、1972年に「牧歌~その夏~」でレコードデビュー。コマーシャルソングを数多く歌うほか、1978年にNHK紅白歌合戦に出場。代表曲に「四季の歌」「坊がつる讃歌(さんか)」など。

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  • チロちゃん says:

    遠い昔、新宿小田急百貨店のスカイラウンジで芹洋子さんの歌を拝聴しました🎵四季の唄が流行していた頃です♪澄んだ美しい歌声に時の経つのも忘れ聴き入ってしまいました。遠い青春時代の忘れられない大切な思い出です♪

    チロちゃん 女性 70代以上

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