平成ノブシコブシ 徳井健太さん 僕はヤングケアラーでした 中1から炊事洗濯「このままだと人生がなくなる」

川合道子 (2024年12月15日付 東京新聞朝刊)
写真

思い出を語る平成ノブシコブシの徳井健太さん(五十嵐文人撮影)

カット・家族のこと話そう

母の異変 心の病気だった

 両親と6歳下の妹の4人家族で、中学2年まで千葉県内の団地に住んでいました。母は若くして地元の北海道で父と結婚し、21歳で僕を出産しました。父の仕事で見知らぬ土地に来て、あまり知り合いもいなかったと思います。

 異変に気付いたのは中学1年のとき。父が単身赴任をして数カ月後のことでした。学校から帰ってくると、母が窓の下にしゃがみこんでいて、「向こうの団地から誰かが見てる」みたいなことを言ったんです。僕はボケでやっているのかなと思って「本当だ。見てるね」と答えたら、母はそれから一歩も部屋から出てこなくなりました。後になって母が心の病気と分かるのですが、当時はそんなものがあるとは知りませんでした。

 僕が家事をするようになりました。朝6時に起き、ご飯を作って学校へ。部活をやって夕方6時ごろに帰ると、母の部屋の隙間から買い物のリストと1万円札が出てくるんです。スーパーに買い物へ行き、ご飯を作りました。妹が小学生だったので体操服を洗って、そこから勉強もしました。今で言うヤングケアラーでしたが、進学校に入りたいという目標もあったし、つらいとは思いませんでした。

 ただ母がお酒を飲んで暴れることもありました。1年は頑張ったけど、どうしようもなくなって父は会社を辞め、家族で北海道に引っ越すことに。その後も高校3年まで、炊事洗濯は僕の担当でした。

家を出たくてお笑いの道へ

 お笑いの道に進んだのは、高校の同級生に進路を聞かれたことがきっかけ。料理ができたので「調理師になろうかな」と答えたら、なぜか「もったいない。お笑いをやったら」と言われ、それなら東京NSC(吉本興業の芸人養成所)に入ろうと決めました。野心があったわけじゃなく、とにかく家を出たかった。このまま母といたら、俺の人生はなくなると思ったんです。

 母は50歳すぎで亡くなりましたが、悲しいという気持ちはありませんでした。生きていれば誰かが世話をしなければいけない。そう思うと、肩の荷が下りた気もしました。

 5年前に友人の勧めで看取(みと)り士の資格を取得したのですが、今までにない経験をしました。「目をつぶって、自分を身ごもっているときの母親の気持ちを考えてみましょう」という授業で、僕は泣き出してしまって。胎内にいるときは母親の愛で100%守られているんですよね。僕は幼いころから母に愛された記憶がなく、それでいいやと思っていました。でも、もしかしたら母なりにいろんなことを考えてくれていたのかもしれない。そう思うと、涙が止まりませんでした。

 僕には妻と子どもがいて、基本的に僕が家事をしています。子どもには、親に愛されて育ったと感じてもらえたらと思っています。

徳井健太(とくい・けんた)

 1980年生まれ。東京NSC同期の吉村崇さんとお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」を結成し、テレビ番組などを中心に活躍。YouTubeチャンネル「徳井の考察」も開設している。子ども時代から家族の世話や家事を担う元ヤングケアラーとして、各地で講演活動も。自らの体験を基にした半自伝的小説「イカれた俺が好きだった。」を電子書籍サイト「FANY Story」で連載している。

0

なるほど!

8

グッときた

0

もやもや...

1

もっと
知りたい

すくすくボイス

この記事の感想をお聞かせください

/1000文字まで

編集チームがチェックの上で公開します。内容によっては非公開としたり、一部を削除したり、明らかな誤字等を修正させていただくことがあります。
投稿内容は、東京すくすくや東京新聞など、中日新聞社の運営・発行する媒体で掲載させていただく場合があります。

あなたへのおすすめ

PageTopへ