シンガーソング絵本ライター 中川ひろたかさん 絵本「8月6日のこと」は母から繰り返し聞いた原爆の話 「アメリカの人にも読んでほしくて英訳をつけた」

家族らが被災した太平洋戦争のことなどを話す中川ひろたかさん(川上智世撮影)

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです
原爆投下がなければ伯父に会えたはず
母(96)も父(故人)も、瀬戸内海に面した山口県の周防大島の出身。母の3歳上の兄、つまり伯父さんが戦時中、広島市内で衛兵をしていたんだよね。原爆で殺されたの。出版社の人から8月に出す絵本を書いてほしいと言われ、その話を思い出した。それが14年前に出した「8月6日のこと」。
戦争は反対だけれど、僕は体験していない。それまで、リアリティーがないと想像では書けないなと思っていた。でも考えたら、小中学校のころ、母から原爆の話は聞いていたので、書けると思った。
子どものころは、毎年夏に周防大島に行っていた。お墓参りもした。伯父さんの遺影があったんだけれど、すごくいい男。「容姿端麗、頭脳明晰(めいせき)。自慢の兄だった」と母は言っていた。会いたかった。絶対会えたはずだった。原爆が落ちていなかったら。
伯父さんの遺体は、どこかの島に埋められたって。母は、その島に行って土を持って帰りたいって言っていたけれど、それは果たせていないんじゃないかな。それくらい兄のことを思っていた。
母は昔の話、特につらかった時のことをよく話していて、原爆の話も何度も聞いていた。当時は「また話してるよ」くらいに受け止めていた。「母の兄」に起きたことは分かっていた。自分にとっては「伯父さん」で、それってとても近い存在なのに、なかなか気付かなかった。絵本を作るときに「そっか、伯父さんだったんだ」と。自分の想像力不足だよね。「早く気付けよ」って思った。
戦争の話はつらくて話せなかったんだ
絵本を作るにあたって、絵を付ける長谷川義史と島に行った。そのときに、父の妹からも初めて当時の話を聞いた。叔母さんは原爆が落とされたときに広島にいて、トラックの荷台に乗っていたんだって。運転席側にもたれていて、他の大人たちは荷台に立っていたと。運転席側からピカッと光って、みんなやられてしまって救護に回ったんだと。それまで、ずっとその話はしていなかった。よっぽどつらかったんだ、しゃべれなかったんだと思うと、感じるものがあったね。
絵本ができたとき、母に見せたら、絵も含めて「よく描けてる」って言っていた。僕としても「よかった」と思った。アメリカの人にも読んでほしいと思ったから、英訳も付けている。訳したのはアメリカに7、8年留学した長女(43)。一番近くに英語ができる人がいたからお願いした。
娘や息子には、母の戦争体験の話はしてこなかった。僕の体験じゃないからね。そういう意味でも、本の形で残せたのはよかったんじゃないかな。いつか孫たちも見るかもしれないし、僕たちのひいおばあちゃんはこんな苦労したんだなと思ってくれたら、御の字です。
中川ひろたか(なかがわ・ひろたか)
1954年、埼玉県生まれ。大学を中退後、日本初の男性保育士として保育園に勤務。87年にバンド「トラや帽子店」を結成し、「にじ」「みんなともだち」などを発表。95年に「さつまのおいも」(童心社)で絵本作家デビューを果たす。2005年、「ないた」(金の星社)で第10回日本絵本大賞を受賞。
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