パーパー ほしのディスコさん 口唇口蓋裂の僕につきっきりだった母 これからは自分のために生きてほしい

母親について語るほしのディスコさん(松崎浩一撮影)

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです
手術を繰り返しても「大丈夫だよ」
看護師の母は、家庭で頼りがいがあり、職場でも同僚に好かれて。それを見てぼくは誇らしかった。「かっこいいお母さん」です。うそ偽りない人。
ぼくは上顎の形成がうまくいかない口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)という病気で手術を繰り返しましたが、母は保育園の頃にはもう説明してくれました。「治すために手術をしてるから全然大丈夫だよ」って。当時のぼくは、毎週のように病院に行く理由はそれか、という感じで、あまり深刻にはなりませんでした。
小さい村で同級生は保育園、小中と一緒で「全員親友」みたいな感じ。特にいじってくる人もいません。でも、小学校では上級生が、ぼくの顔について笑ったり、「話し方が変だ」とまねしたり。とてもショックを受け「ぼくは人とは違うのか」と思って絶望し、死も意識しました。
高校でいじめ 相談はできなかった
治すため頑張ってくれる母に心配かけないよう、相談はできませんでした。知って「かわいそうだ」と言われるのもつらいですし。母と買い物中に知らない子に追いかけられると、ぼくは母が気付かないよう離れました。各地から生徒が集まる高校ではいじめがあり、心を閉ざしました。
自伝的エッセー「星屑物語」には、こうした経験も書きました。読んだ母が「つらい思いをしてたんだね」「でもすごい。ここまでちゃんと成長してくれて、すごく誇りに思います」とSNSで伝えてくれて、うれしかった。
「30歳までに…」母の言葉で発奮
高校1年の時、バラエティー番組の収録で人気芸人が自宅に来ました。小学生の頃から芸人になりたかったぼくは、うれしかった勢いで翌日、母に「本気で芸人になりたいと思ってる」と伝えました。
母は「やりたいなら、やってみたら。30歳までに結果が出なかったら群馬に戻ってきな」と。ぼくは「絶対に戻らないよう頑張ろう」と奮い立ちました。
事務所の先輩たちのようにメジャーなお笑い番組にもっともっと出ないと、自分では「まだまだ」と思っていますが、母は「売れてる」判定を出してくれています。
歌を始めたら知名度が…二刀流です
ハイトーンボイスを生かして歌を始めると、全国的に名前を知ってもらえるようになりました。10月17日は座・高円寺2(東京都杉並区)でソロライブ。原点に戻ってお笑いに力を入れ、歌唱力も高めて、二刀流です。
母はぼくが歌を好きなことも知ってたから「やりたいことを両方できて良かったね」と喜んでくれました。実家に帰るとサイン色紙を手に「頼まれてるから、これ書いてね」ととてもうれしそうです。
仕事が忙しく、ぼくが小さい頃はぼくにつきっきりで趣味の時間を持てなかった母。今年の春に退職してからは家族旅行にはまってるようです。遅くなってはしまったけど、これからは自分のために生きてほしい。いつか、旅に役立つようなプレゼントを贈りたいと思います。

歌でも活躍するほしのディスコさん
レギュラー松本さんが自宅に…
―お笑い芸人になりたい思いはいつごろから?
実は、小学高学年か中学生くらいのときにも一度、「芸人になりたい」と母に言ったことがあって、「絶対なれないよ。普通に働いたほうがいいよ」と心配されました。ぼくはすごく内気な性格でもあったので、母から見るぼくは全然芸人向きじゃなかったみたいで。
それで、芸人になりたい決意はありましたが、学校で将来の夢とかを書くときは「母と同じ看護師になりたい」と偽りました。
高校1年のときに「田舎に泊まろう」(テレビ東京)の収録でお笑いコンビ「レギュラー」の松本康太さんが家に来て。直後に母に「本気だ」と伝えたときに母が背中を押してくれたのは、だから意外でもあって。
「30歳までに結果が出なかったら群馬に戻ってきな」と言われたのは「失敗しても帰ってこられる場所があるんだよ」という優しさもあったと思うけど、その時は「絶対に戻らない。結果を出す」という気持ちが芽生えました。
―パーパーはお笑いのネタ番組に出演し、知名度が高いのに、自伝的エッセー「星屑物語」(文芸春秋)では、コロナ禍で辞めるタイミングを意識したと書かれました。
ぼくの中ではまだ微妙というか。事務所の先輩でいうとモグライダーさんとかが「売れてる」という感じです。あれくらい、レギュラー番組があって、お笑いの番組のメジャーな番組にほとんど出てるみたいな感じがないと、自分としては「芸人として認められてない」っていう感覚があります。
いつか紅白歌合戦に出られたら
―コロナ禍の不安の中で、仲間と共にYouTube「ほしのディスコちゃんねる」を始め、クリープハイプの「栞(しおり)」を披露し、歌でも注目を集めました。
お笑いでテレビに少しずつ出られるようになっても、今ひとつ認知度が上がってない感じがあったのですが、歌を始めてから名前を知ってもらえるようになったと思います。
元JUN SKY WALKER(S)のベーシストで音楽プロデューサーの寺岡呼人さんに病気のことや母への感謝を話したところ、「母がいたから今がある」というぼくの思いを、「僕を見つけてくれてありがとう」という歌詞に込めて「星の降る夜に」を作っていただきました。母も「聞いてるよ。いい曲だね」と話しています。
歌唱力をもっと高めて、新曲も出して。紅白歌合戦にいつか出られるように頑張っていきたいと思っています。
―お笑いにも歌にも意欲的ですね。
ぼくはもともと芸人を始めたときに、口唇口蓋裂のこともあったから表舞台に出られるか分からないと思ってた状態で始めたんですけど、意外と、やってみたらできた。最初から諦めちゃってたら、できなかったと思います。
今、同じ病気やそれぞれの悩みを抱える人たちから、メッセージをいただきます。親御さんからのメッセージで「育児に不安があったけど、ほしのさんを見て勇気をもらいました」というものもけっこう多くて、うれしい。これからも、ぼくの活動で何か感じてもらえたらいいなと思っています。
ほしのディスコ
1989年、群馬県沼田市(旧白沢村)出身。マセキ芸能社所属のお笑い芸人。2014年、あいなぷぅさんとコンビ「パーパー」を結成。キングオブコント2017、R―1ぐらんぷり2020でファイナリスト。22年、「いとしの悪魔ちゃん」で歌手デビュー。著書に「星屑物語」(文芸春秋)。23年から沼田市親善大使。
なるほど!
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家の娘も口唇口蓋裂です。買い物に行くと同世代位の子供がジロジロ見ていて「この子顔が変」と言われた事があり、その子に「貴方と同じだよ、目も鼻も口もあるよ」と言った事があります。その後子供さんは親御さんの後ろで泣きながらジロジロ、親御さんも家の娘をジロジロ見ている事が日常茶飯事。
親子でお互いを誇りに思える関係がとても素敵です。包容力があり優しいお母様とそんなお母様の事を思う優しい息子のディスコさん。息子がいる私にはこんな親子関係がうらやましくもあり、色々と考えさせられました。おそらく私は息子から誇りに思われる母ではないな、と思い浮かぶのは反省の出来事ばかり。もう息子は自立してしまいましたが、子育て中にこの記事に出会えていたら、もう少し立派な母になれていたかもと思いました。
心優しい記事でとてもあたたかい気持ちになりました。何があっても子供には健康で幸せになって欲しいというのは全ての母の願いだと思います。でも接し方や伝え方次第ではこじれたり空回りしたり…。
ほしのさんのお母さまは子供の年齢に合わせていつもちょうど良く見守っていらしたのかなと思いました。心から尊敬します。