東京女子大学長・神学者 森本あんりさん 「人間の手はどうやって動くの」父に尋ねると、哲学の道を教えてくれた

父との思い出を語る森本あんりさん(木戸佑撮影)

各界で活躍する著名人がご家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです
会社員ではなく絵描きだ
父(画家の故・森本利根(とね)さん)が生まれたのは1924(大正13)年。群馬の前橋で育ちました。10人きょうだいの末っ子で、甘えん坊だったようです。戦後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)や舞台芸術学院に入りましたが、学費が続かずやめています。貧乏画家で、食いぶちを稼ぐために就職したのが証券会社でした。支店の看板やレイアウトを手がけ、家を空けたまま帰らない。経済が右肩上がりの時代だったので、あの頃の父親は、皆そうでしたね。
絵も描き続け、個展を開くとよく売れました。自分は会社員ではなく絵描きなんだ、という意識が強かった。僕に絵描きになれとは言いませんでしたが…。
家の2階が父のアトリエで、僕の勉強机もあって、よく話をしました。小学3年か4年の頃かな、絵を描く父を見ていて「人間の手は、どうやって動くの」と尋ねた。自分が心の中で思うことと手が動くことが、どうつながっているのか知りたかったのです。すると「そういうことを勉強する学問がある。哲学というんだ」と教えてくれて、哲学をやろうと決めました。
大学に入って哲学から神学に変わりましたが、大学院で神学を学んで牧師になることに父は、自分の好きにしろ、と言うだけでした。ただ、大学院の学費は自分で払うように言われてアルバイトを随分やりました。奨学金も借りたのですが、大学院卒業時の借金が500万円あり、返すのに50歳までかかりました。僕は大学を卒業して1年目、23歳で結婚したのですが、結婚するのに、父に大学院の学費を出してくれとは言えませんしね。
導かれるままに歩んできた
僕の名前の由来ですが、父いわく、杏(あんず)の木は痩せた荒れ地でも美しい花を咲かせる。だから苦しい環境にいても努力して美しい花を咲かせなさい、そして冷静に理を究める知性も持ちなさい、と。漢字で書くなら「杏理」ですが、届けは平仮名です。
その杏は藤山一郎さんの「崑崙(こんろん)越えて」という歌の歌詞「杏花咲け 荒野に 血潮は燃えて」から来ている。父は、中国・崑崙山脈のかなたに桃源郷を夢見て旅に出たこともあります。ロマンチストでしたね。自由人というのかな。それが半分は僕にも流れている。制度や組織への反発があって、大学入試なんか受けるもんかと思っていた。そんな青二才みたいなこと、今は言ってられませんが…。
僕は導かれるままに歩んできたと思います。現代人に縁遠い考え方ですが、仕事も恋人も自分から出かけて行ってつかみ取るのではなく、志しつつ目前に現れたものを受け入れる、ということです。仕事って、適性があるからその仕事をやるのではなく、やっているうちに適性ができてくるのだと思います。若い方たちに申し上げたいのは、自分に与えられたものを受け止める、そして歩きだしてみる、ということでしょうか。
森本あんり(もりもと・あんり)
1956年、神奈川県出身。79年国際基督教大人文科学科卒、91年米プリンストン神学大学院博士課程修了。国際基督教大牧師、教授、副学長などを経て2022年より現職。専攻は神学・宗教学。「反知性主義」「不寛容論」(新潮社)「異端の時代」「魂の教育」(岩波書店)など著書多数。
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