「はだしのゲン」中国語翻訳者 坂東弘美さん 戦争が各地で起きていても、父のように手を取り合うラストシーンがあるかもしれない

藤原啓嗣 (2025年10月26日付 東京新聞朝刊)

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幼いころの家族との思い出を話す坂東弘美さん=名古屋市天白区で(今川香穂撮影)

カット・家族のこと話そう

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです

生きるか死ぬかの戦地から帰還

 父は木工所を営んでいました。ブランコやポストを作ってとお願いすれば、すぐにこしらえてくれるほど私をかわいがってくれました。住み込みで働く職人もいて、夕食はみんな一緒。「大将」と慕われる父は、故郷の海で誰よりも達者に泳いだ思い出を明るく披露したものです。

 それが1959年の伊勢湾台風で暗転しました。名古屋市中川区の工場が浸水して、木工所は倒産。父を助けようとする人の会社で働いたり、新しい事業を始めたりしましたが、長続きしませんでした。私が自殺するか家出するか悩むほど、父と母はいがみ合うようになりました。私の思春期は父と母のお守りをするためにあったようなものです。

 父は「今の若いもんは俺たちが兵隊に行った苦労も知らずに…」と言っていました。旧陸軍の歩兵第6連隊に所属し、日中戦争中も含めて中国に7年間従軍した父。生きるか死ぬかの戦地から42年に帰還して、ようやく築いた工場を災害で失いました。日本経済は急成長するし、不満ですよね。私はようやくその心中が分かる年になりました。

 台風の被害に遭う前に、父の本棚を開けると洞穴のような場所で後ろ向きに人が並んでいる写真を見つけました。何かを察した私は「お父さん、人を殺したことあるの?」と尋ねました。よくしゃべる父が急に黙って、「殺さなければ、俺が殺されていた」。温かい父が語った言葉は、小学生の私には衝撃でした。

中国の若者たちとの縁きっかけに

 私の子どもが小学校の夏休みの宿題で、戦争はどうして起きるのか調べました。父に話を聞くよう助言すると、「戦争と言うものは悲しいものだ 相手を殺さねば自分が殺される」という書き出しの手紙が送られてきました。その後2年間、父は計343枚の便せんを送ってくれました。

 82歳で亡くなった後、この手紙を読み返しました。尺八を吹いて故郷を思う時があれば、不意の攻撃で仲間を亡くしたこともあったようです。死を覚悟してやみくもに突撃したともつづっています。「なんでもっと早くこの気持ちを聞いてあげなかったんだろう」と後悔しました。

 父を送り出す日、私の家には中国人留学生が滞在していました。私の息子は中国に留学していて、私を慕うこの留学生が代わりに父のひつぎを担ぎました。戦地でもぬくもりを感じる交流があったという証しのように思いました。

 そして、これも何かの縁でしょう。私は中国のラジオ局で勤務中に親しくなった中国人の若者たちと、原爆投下後の広島をたくましく生きる少年を描いた漫画「はだしのゲン」を中国語に訳しました。戦争は今も世界各地で起きています。それでもいつか、父のように手を取り合うラストシーンがあるかもしれないと希望を持ち続けています。

坂東弘美(ばんどう・ひろみ)

 1947年、名古屋市出身。大学卒業後にアナウンサーの養成校で学び、71年から中京テレビや岐阜放送で働いた。99年、北京のラジオ局「中国国際放送局」で日本語の専門家として勤務。中国人の若者らと2007年から漫画「はだしのゲン」を中国語に翻訳し始め、翻訳本は16年に台湾の出版社から発売された。

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