「はだしのゲン」作者 中沢啓治さんの妻ミサヨさん 人気が高いゲンは、原爆投下後の夫の生きざまそのもの

藤原啓嗣 (2026年2月1日付 東京新聞朝刊)

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漫画家 中沢啓治さんの妻ミサヨさん(藤原啓嗣撮影)

カット・家族のこと話そう

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです

母親を亡くした苦しみを作品に

 瀬戸内海に浮かぶ広島県の島の農家に生まれて、ひもじい思いをしたことはありません。一方、広島市出身の主人は被爆して、投下された日に父、姉、弟を亡くしました。私は主人の漫画を通じて、戦争の恐ろしさを知りました。

 島を離れて広島市で働いていたある日、同僚にビールを飲みに行こうと誘われました。東京から知人が来ていると言うのです。それが主人でした。明るくて、私たちを話に引き込む魅力がありました。お礼の手紙を出すと1カ月後に返信が来て、漫画を描いていると知りました。

 縁というのは不思議だと思います。第一印象が良かったし、「この人なら大丈夫」と結婚しました。結婚から半年ほどして、主人のお母さんが亡くなりました。遺骨は数センチの小さな骨になっていて、形は残っていませんでした。東京へ帰る新幹線の中、主人は何も語らず、気難しい顔で考え込んでいました。1週間ほどしたら「黒い雨にうたれて」という漫画の構成を読ませてくれました。

 恨みを抱えた被爆者の殺し屋が主人公の作品です。びっくりしました。原爆が題材の作品は初めて。主人は「おれはおふくろが生きていたからこそ、まともな人生を送ることができた」と感謝していました。原爆が母親の骨を食いつぶしたと思っていました。母親を亡くした苦しみや怒りを作品にぶつけたのでしょう。

子どもが読めないと感じた被爆の描写

 1972年発表の自伝漫画「おれは見た」では、下描きとともに、原爆投下後の生きざまを初めて話してくれました。時に目に涙を浮かべていました。偏見や差別は根強く、私たち家族に迷惑をかけないように主人は被爆の経験をそれまで語らなかったんです。

 衝撃でした。何も悪いことをしていないのに、原爆で人生をひっくり返された人が目の前にいるんです。こんな仕打ちは、地獄ですよ。よく生きていたと感心しました。

 この作品に少年誌の編集長が共感して、73年に連載が始まったのが「はだしのゲン」です。自身を投影したゲンの人気は高かったですが、遺体ややけどの痕にウジが湧き、ハエが飛び交うなどの描写はきついでしょう。主人に「子どもが読めない」と言うと、「これはもう最小限に抑えている。もっと抑えたら、原爆じゃない」と諭されました。

 主人は一昨年、アメリカの漫画賞「アイズナー賞」の殿堂入りを果たしました。昨年はゲンの英語版がノルウェーの「ノーベル平和センター」に所蔵され、読者が広がっているようで、うれしいです。

 ただ、政府の高官が「日本は核保有すべきだ」と発言したというニュースには、憤りを感じました。主人は「核兵器の残虐さを知らない人がいることが怖い。知らないと使ってしまう」と心配していました。私はこれからも核兵器の廃絶を訴えていきます。

中沢ミサヨ(なかざわ・みさよ)

 1942年、広島県蒲刈町(現・呉市)生まれ。66年に漫画家中沢啓治さんと結婚。同年、他の漫画家のアシスタントを辞めて独立した啓治さんの創作を手伝うように。原爆の後遺症に苦しむ啓治さんの体調管理に努めながら、1女を育てた。2012年、啓治さんが肺がんで73歳で亡くなった後、取材を通じて作品に込めた思いを伝えている。

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