作曲家・ピアニスト 加古隆さん 4兄弟の絆はおやじの功績です

砂本紅年 (2018年2月11日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

兄弟や両親について話す作曲家・ピアニストの加古隆さん(五十嵐文人撮影)

小学生のころは毎日けんか

 男ばかりの4人兄弟の長男として育ちました。おやじはあまり細かいことは言わなかったのですが、「兄弟仲良く」ということだけは、口を酸っぱくして言っていました。今でもその言葉が生きていて、相当仲のいい兄弟です。おやじの功績ですね。 

 ぼくが小学生のころは、毎日兄弟げんかか、相撲やレスリングの取っ組み合い。家の中はすさまじく、ふすまや障子が破れるのは当たり前。親がいない時は、家で野球をしてボールを投げたりバットを振ったりしていたので、よくガラス戸を割りました。冬は、修理の日まで寒いのを我慢したのをよく覚えています。

 朝ごはんの時は、4人がひっきりなしにおかわりの茶わんを差し出すので、茶わんは大きな丼になり、炊飯器も大きい業務用でした。子育てで母は大変だったでしょう。おやじは自営業で、母は仕事も手伝っていました。

ピアノとの出合い

 ぼくがピアノを習い始めたのは小学2年生のころ。担任の女性教諭がたまたま音楽の先生で、授業中の様子を見て、「この子は勘がいいから習わせてみては」と両親に話してくれたんです。

 うちは、家族にも親戚にも音楽家はいないし、当時、校内でピアノを習っている男子はいませんでした。ただ、母は高等女学校時代に、音楽を勉強したいと父親に頼んだけれど、習わせてもらえなかった経験があったようで、先生の提案に賛成。ぼくは放課後、学校で先生に手ほどきを受けるようになりました。今だったら、えこひいきと問題になるかもしれませんね。先生には感謝しています。

 その後、本格的にピアノを学び始めたぼくの影響で、弟3人も近くのピアノ教室に通うようになりました。誰一人プロなんて目指していませんから、みんな練習をいやがる。長い間練習せず、父から「それならピアノをやめなさい」と怒られた時がありました。ぼくは自分でもよく分からないのですが、「やめない。続ける」と言いました。一方、次男は食事中、涙をポロポロ流しながら「ほかのことなら何でもするから、ピアノはやめさせて」。今でも思い出すと、おかしくなります。

それぞれの道へ

 次男は30代で翻訳関係の会社を起こし、今は引退して悠々自適。三男はピアノを続け、中学からブラスバンドに熱中。トランペット奏者になり、音楽大の教授です。

 みんなぼく以外は身長180センチ以上でスポーツも好き。特に四男は中学の野球部で4番・ピッチャー。全国の高校からスカウトが来ましたよ。名門高校から甲子園に2回出場し、早稲田大でレギュラー。体をこわして選手生命は絶たれましたが、今でも野球に関する仕事をしています。

 今年はまた4人で顔をそろえたいものです。今は何よりみんなの健康が願いです。

加古隆(かこ・たかし)

 1947年、大阪府豊中市生まれ。東京芸術大大学院作曲研究室修了。パリ国立高等音楽院で現代音楽の巨匠オリビエ・メシアンに師事。代表作にNHKスペシャル「映像の世紀」のテーマ曲「パリは燃えているか」など。

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