児童書作家・原ゆたかさん 父に対して後ろめたい気持ちがあったけれど…実は応援してくれていました

川合道子 (2023年10月1日付 東京新聞朝刊)
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両親との思い出を語る児童書作家の原ゆたかさん(潟沼義樹撮影)

家族のこと話そう

好きなことを自由にやらせてくれた父

 幼いころ、母の出身地の熊本市で暮らしていました。父は当時、公務員で土木関係の仕事をしていたそうです。その後、父の転勤や転職で何度か引っ越し、東京や兵庫、愛知に住んだこともあります。

 絵を始めたのは熊本にいたころ。まだ2、3歳だったと思いますが、新聞紙に墨で何かを描いている姿を見た両親が「才能がある」と思ったらしく、絵画教室に通わせ始めたそうです。

 小学生の時は漫画を描くのも好きでしたが、当時はやっていた怪獣映画の影響で、映画を撮ることに夢中になった時期も。友人の家の二段ベッドの下に土や砂を運んでジオラマを作り、「線香をたけば工場の煙突に見える」なんて話しながら、良いシーンを撮ることで頭がいっぱい。母には「宿題やりなさい」とたまに怒られたけれど、父にはあまり言われず、よく自由にやらせてくれたなと思います。

亡くなる間際になって、じっくり話を

 高校を卒業後、名古屋市内の予備校に通って芸大を目指しましたが受験に失敗。1カ月ほど家出して四国を放浪する中で「大学の卒業証書があっても絵の仕事がもらえるわけじゃない」と考え、大学に行かないと決めました。アルバイトしながら絵を描き、何度も出版社に足を運び、本を出せるようになりました。

 でも、ずっと後ろめたい気持ちがあって。特に父方は頭の良い家系だったので、私も良い大学に入って、まっとうな仕事に就くことを期待されていると思っていました。

 十数年前、父ががんを患い、亡くなる間際になって随分と話しました。そこで父に「本当は児童書作家なんかになってほしくなかったんだよね?」と聞いてみたんです。そうしたら「そんなことを思っていたのか」と。本当は好きなことをやっているのを応援してくれていたみたいで、私のことが紹介された記事の切り抜きを集めてくれていました。その時は照れもあってそっけない態度を取ってしまいましたが、うれしかった。

 父は自分が亡くなった後に家族が困らないよう、必要な手続きを細かく書き残していました。それに私が生まれて、いつ、どこに転校したのか、どんな山に一緒に登ったのかまで記した年表もありました。立派な最期でした。

「ゾロリ」には武器を持たせません

 私はまだ元気ですが、どう身じまいしようか考え始めています。「かいけつゾロリ」は、いまのところ80巻まで書くことが目標。このごろは、昔出したキャラクターがゾロリに出会い、どう幸せになっていたかを描きたくて、再会する話も書いています。

 最近のアニメは戦いものばかり。それでは現実でも戦争は終わりません。だからゾロリには武器を持たせず、誰も傷つけず、おならとおやじギャグで事件を平和に解決させたい。そこは最後までぶれずにいきたいなと思っています。

原ゆたか(はら・ゆたか)

 1953年、熊本市生まれ。1987年刊行の児童書「かいけつゾロリ」シリーズ(ポプラ社)は、「同一作者によって物語とイラストが執筆された単一児童書シリーズの最多巻数」として2022年にギネス世界記録に認定された。今年7月には最新刊の73巻を発刊。ほかに妻の原京子さんとの共著「イシシとノシシのスッポコペッポコへんてこ話」シリーズなどを手がける。

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