障害児のお世話をすることを期待すれば、それは暴力【歌人の服部真里子さんが語るきょうだい児の思い・中】

山本哲正
 歌人の服部真里子さん(38)は、全盲で、重度の知的障害がある姉がいます。連載の第1回では、「今現在の時点では、障害児のきょうだいに生まれてよかった」と率直に語りました。よかったと言える背景には、両親が徹底している家庭の方針があるそうです。連載の第2回は、きょうだい児である服部さんが、障害者の味方でいられる理由に迫ります。
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服部真里子さん(山本哲正撮影)

 服部さんは1987年、横浜市で生まれました。早稲田大に進学し、短歌の世界へ。第1歌集「行け広野へと」(2014年、本阿弥書店)では第21回日本歌人クラブ新人賞、第59回現代歌人協会賞を受賞しました。第2歌集は「遠くの敵や硝子を」(2018年、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)。ここに収録された「水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水」は、分かるか、分からないかの論争も注目を集めました。
 
 服部さんが参加した集会は、東京都杉並区の日本聖公会 聖マーガレット教会で「障がいを負う人々・子どもたちと共に歩むネットワーク」が主催した「東京・障害がい者問題を考える集い」。ここでの話をベースに、補足取材を加味して紹介します。

両親は私に姉の世話をさせなかった

 きょうだい児の私が、「障害児のきょうだいに生まれてよかった」と思えるのは、まず間違いなく、家庭において両親が徹底していた、とある方針のおかげだと思っています。それは、「きょうだい児に、絶対に障害児の世話をさせない」ことです。

 その徹底ぶりはすさまじいものでした。私は生まれてから今日まで、一度たりとも姉の介助をしたことがありません。食事も、お風呂も、着替えも、トイレも。子どもの頃は、姉の身体に触れることすらほとんどありませんでした。周りの大人がほんの少しでも、私が将来姉の面倒をみることを期待するようなことを口にすると、父は烈火のごとく怒りました。「真里子にそんな責任を感じさせないために、俺たちがどれほど心を砕いていると思っているのか」と。

 両親の徹底ぶりは現在も続いています。父は10年前に他界しましたが、今年72歳になる母もまた、自分の死後の姉の生活設計に、私を一切組み込もうとしません。「成年後見人になってね」とか、「できればたまに様子を見にきてね」とか、せいぜいそのくらい。直接的な介護の要員には一切カウントしていません。それも、「真里子のためにしてやっている」という感じは皆無で、息をするように自然にです。

妹の私のためだけの抱っこの時間

 もう一つ、母が必ず守っていたことがあります。私が小学校低学年の頃、「真里子が小学校に行く前の10分間は、必ず真里子のためだけの抱っこの時間にする」というものでした。障害児ときょうだい児がいれば、親の関心はどうしても、より手のかかる障害児の方に行ってしまうだろう。そのことを、母は私を産んだ時点で明確に予測していました。だから彼女は対策を立てたのです。それも、「なるべくきょうだい児の方にも目を向けるように気をつける」みたいなフワッとした努力目標ではなく、達成したかしないかが誰の目にもはっきりとわかる、具体的で数値化された、実現可能な対策を。

 重要なのは、この10分間が「先に確保された時間」だったことです。同じ10分でも、「障害児の世話をして、家事をして、余った時間」ではないんですね。後者のやり方だと、人間というのはどうしても「また時間が余らなかった」となってしまう。母は意識的にそれを防いだのです。とはいえ母も完璧ではないので、1日たりとも欠けることなくこれを守れたわけではありませんでした。10分が5分だったことも、なかったことも。あるいは、あったけど母がずっとイライラしていたこともあります。

 でも、母が私を最優先する10分間を「つくろうとしてくれた」ことは、大人になっても私の胸に残り続けました。完璧にできなくてもいいんです。しようとする意志は伝わります。あくまでもその意志が本気でありさえすればですが。母は本気でした。それが伝わってきたから、私はグレずに育つことができたんです。「真里子には、真里子の人生があるのだから」。母はずっとそう言っています。特別なことではなく当たり前のこととして、母が私を愛してくれているのを感じます。

赤ちゃんと母親の手の写真

奪われたものは何ひとつなかった

 きょうだい児である私が、障害者の味方でいられるのは、障害者のきょうだいであるために奪われたものが何ひとつなかったからです。それは偶然ではなく、私の両親の確固たる意志によって守られたものです。だから、障害児ときょうだい児をもつお父さんお母さんにお伝えしたい。絶対に、障害児の世話をすることをきょうだい児に期待しないでください。なぜ「絶対に世話をさせないで」ではなく、「世話をすることを期待しないで」なのかというと、ご家庭によっては、すぐにどうにもできない事情もあると思うからです。

 でも、少なくとも「期待しない」ことなら、ご家庭の事情に関係なく今すぐできるじゃないですか。心の問題なのだから。「え? でも、うちの子は自分からすすんで障害のあるきょうだいの世話をしてくれている。障害のある子のお世話が、もとから好き。優しい子に育ってくれてよかったと思っている。そういう場合も、期待しちゃいけないのか?」という考えもあるかもしれません。

 きょうだい児としての答えは、「はい、期待してはいけません」。というかむしろ、既に期待をしてしまっていて、そのきょうだい児は無意識に期待に応えている可能性があります。ストックホルム症候群。立てこもり事件とかで人質になった人が、犯人に好意を抱いたり、自らすすんで犯人に協力したりしてしまう現象です。食事も、トイレも、睡眠も、犯人の許可なしではできない状況の中で、生き残るための戦略といわれています。

 きょうだい児が、自らすすんで障害のあるきょうだいのケアをしている場合、親御さんは少なくとも一度、お子さんがこれに似た状態にあるのではないかと疑った方がいいと私は思います。これは、障害児ときょうだい児をもった親御さんにだけ言えることではありません。私の育った家庭を含めて、子どものいるご家庭のすべてに当てはまることだと思っています。

弱者と弱者でリソースの奪い合い

 家庭において、親と子どもには、絶対的な権力の差があります。親は大人です。力も強いし、自由にできるお金もあります。それに対して、子どもはどうでしょう。自由にできるお金を持たず、自分で働いてお金を得ることもできず、自分ひとりで意思決定をする権利もありません。今日食べるものも着るものも眠る場所も、親の機嫌ひとつで奪われてしまうかもしれない、弱い立場です。だから常に、子どもは親の顔色をうかがい、期待に応えようとし、愛してしまうものなんです。別に優しいからとは限りません。そうしないと生き延びられない現実があるからです。自発的な優しさではなく、生き延びるために無意識のうちに環境に最適化した姿です。

 貧しい人たちのために、苦しむ人たちのために何かしましょう、という話は、よくありますよね。でも本当に不思議なことに、自分たちの一番身近にいる貧しい、弱い者に目を向けようということにはならないんですよ。子どもっていうのは社会的弱者なんだと思うんです。

 きょうだい児にとっての問題は、社会的な弱者である子どもという存在でありながら、やはり同じように社会的弱者である障害のある人たちと一緒に育たなくてはいけないことです。弱者と弱者が一緒にいると、そこにはどうしてもリソースの奪い合いみたいなことが起こる。で、きょうだい児というのは、「子どもは弱い立場だ」ってことがあまりにも不可視化されていて、どうしてもわりを食う。さらに弱い立場に追いやられてしまいます。

 親にとって子どもは、自分より弱くて、何をしても自分を愛してくれて、許してくれて、離れていかない存在。人は、そんな存在に対しては意識して歯止めをかけなければ、水が上から下に流れるように自然に暴力を振るってしまいます。暴力って、殴る蹴るだけじゃないんですよ。私の暴力の定義は、「自分から逃げられず、自分より弱い相手を、自分の思った通りの姿にしようとすること」。コントロールと言い換えてもいいかもしれません。

写真 しかられる子ども

大人である親は子どもにとって権力者

 絶対的な権力者である親が、無力で親に隷属するしかない立場のきょうだい児に対して、障害児のお世話をすることを期待すれば、それは暴力です。きょうだい児は逃げられないし、親の期待に応えなければ生きていけないのだから。きょうだい児自身も、強制された感覚はなくて、自らすすんでやっていると思っているかもしれません。でも親御さんは、きょうだい児が無意識に期待に応えている可能性を忘れないでください。ストックホルム症候群の人たちだって、「自分の意思でやっている」つもりなんですから。

 障害児を育てるのって大変ですよね。きょうだい児もいればなおさらです。親御さんは本当に大変だと思い、そのことで胸がいっぱいになり「きょうだい児としては、こうだ」とあまり強く言えない気持ちにもなりますが、でも私はきょうだい児だから。きょうだい児の立場から伝えたい。

 子どもが泣いたりわめいたりすると、まるで子どもが王様で、自分が奴隷のように思える時があるかもしれません。でも忘れないでください。大人である親は、家庭において権力者なんです。親は子どもに対して、被害者意識を持ってはいけないと思います。なぜなら、被害者意識は暴力を正当化するからです。

 構造的に子どもに暴力をふるいやすい親という立場において、被害者意識ほど危険なものはありません。障害児の親は、社会においてはいろいろな差別の被害者かもしれませんが、家庭においては常に権力者です。きょうだい児に対する、「ちょっとくらい障害児のお世話を頼んだっていいでしょ」「ちょっとくらいイライラをぶつけてもいいでしょ」という甘えや期待は、暴力です。

 甘えが甘えとして成立するのは、相手が自分と対等、または自分より強いときだけ。自分より弱い立場の人に対する甘えは、ただの暴力です。相手は逃げられないんだから。状況を変えることはできなくても、期待する気持ちはすぐに変えられますよね。なので、きょうだい児に対して期待をするのは今すぐにやめてください。

やってほしいことを言葉でお願いして

 期待するのではなく、やってほしいことをきちんと言葉にして、お願いをしてください。期待とお願いは違います。期待は、立場の弱い人に対して、自分の気持ちを察して自発的に動くことを強制するコントロール、すなわち暴力ですが、お願いは対等な立場からの依頼。だから当然、断られる可能性も想定してくださいね。断られて怒るなんて言語道断。きょうだい児は、親の道具でもなければ、親の期待に応えるために生きているわけでもないのですから。

 「言葉にして、お願いする」。これができない、いや、しない人はけっこう多い。物事を言葉にするのが面倒くさい。そして、自分が悪者になるのも嫌だからです。自分のために労力を割くことを要求する自分の加害性を直視せざるをえない。それが嫌で、つい、自分のしてほしいことを言葉にするのをサボって、相手が察してくれるのを期待してしまう。相手に甘えてしまう。だから一方で、立場の弱い人は、相手の顔色を読むことと、物事を言葉にする能力にたけるんです。

 私は今まで、それなりに数多くのきょうだい児に出会ってきましたが、彼らには共通した特徴があります。相手のやってほしいことを、言語化される前に察知して動く。これはおそらく偶然ではなくて、きょうだい児が成長の過程で、普通の人よりずっと多く、そうした作業を要求されてきた証拠だと思います。でもハードなんですよ。親はそれに甘えないで、言葉にしてお願いをしてください。

 きょうだい児にはきょうだい児の人生があるんです。障害のあるきょうだいの介助、介護は訪問介護員など公的な福祉サービスにシフトしてください。

 ここから話は、服部さんが冒頭で「しんどかった」と振り返った、障害児の親の子どもに生まれたことで大変だったことに踏み込んでいきます。

服部真里子(はっとり・まりこ)

1987年、横浜市生まれ。現在は、NHK文化センター青山教室の短歌講座「こんにちは短歌」「おはよう短歌」の講師を務める。2025年12月24日に「あなたとわたしの短歌教室」(山川出版社)を刊行した。

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歌人の服部真里子さんが語る「きょうだい児の思い」

【上】きょうだい児に生まれて、よかった?

【中】障害児のお世話をすることを期待すれば、それは暴力(このページ)

【下】障害のない私には、人より劣ることを許さなかった

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