都立高の水泳授業「見学・欠席なら補講で200m泳ぐ。拒否したら評価は1」 女子生徒が「おかしい」と訴える
体調不良の子もいるのに「全員参加」
生徒は6月、本年度の水泳の授業について学校から配られたプリントを見て驚いた。見学などの場合、1回につき400メートルを泳ぐ補講と書いてあった。その後、新型コロナウイルス禍で基礎体力が落ちていることを理由に泳ぐ距離は短縮されたが、それでも200メートルを泳がないといけない。拒否すれば評価は「1」と明記してある。
高校の25メートルプールでは、計約80人が男女別のグループに分かれて同時に授業を受けるという。生徒は「体調不良や(生まれた時の性別と異なる性で暮らす)トランスジェンダーなどでプールがつらいという子もいる。『泳がなければ評価1』はひどい」。
プールのない高校に進学した知人もいる。それだけに、そもそも自分の高校では、なぜ水泳が全員参加なのかという疑問も湧いた。
本紙取材に学校は「参加姿勢を見る」
本紙は、生徒が通う高校に理由を聞いてみた。保健体育の担当教諭は「高校時代に水泳の技能を身につけてもらいたいので全員参加としている」と説明する。200メートルを泳ぐ補講については「(プリントの)文言は厳しく見えるが、参加する姿勢を見ている」と強調。欠席が続く生徒には声をかけ、トランスジェンダーの生徒がいれば配慮するなど個別対応しているという。
東京都教育庁によると、186校の都立高のうち、1校を除きプールがある。授業や補講のあり方について、都の担当者は「授業を休んだからといって、一律に何百メートルを泳がせるような課題を課す指導はしないように、と校長連絡会などで伝えている」と話す。
友人53人に聞くと… 6割が「嫌い」
生徒が写真共有アプリ「Instagram」を使って、同じ高校に通う友人ら53人にアンケートをしたところ、6割近い31人が水泳の授業を「嫌い」「大嫌い」と答えたという。
高校を中心とする東京都立学校では4月から、下着の色の指定や髪の毛を一律に黒く染めるなどの5項目が全廃された。こうした理不尽な校則は「ブラック校則」と呼ばれる。生徒は「問題となったブラック校則については各校で改善が進んでいる。水泳の授業や補講の仕方も改めてほしい」と話している。
高校の水泳授業
学習指導要領は、高校の保健体育で水泳を必修としていない。「水泳」「器械運動」「陸上競技」などの領域から各校の判断で選択し、教育内容を決めている。
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補講として泳がせること自体は問題ない。 体調が悪いのが理由で休んだのだから、他の体調が良い日に泳ぐのは当然だ。 ただ、200mは多すぎないだろうか。 休まなかった生徒たちは正規の授業の際、皆が200m泳いだのだろうか。 泳いでいたのならば問題ないし、それより少なくしか泳がなかった生徒がいたならば、200mの補講は「やりすぎ」ということになると思う。
社会学者の宮台真司氏は「てめえの快不快には公共性がない」と発言しています。私は強くそれに賛同します。
水泳授業における様々な問題は、基本的に「てめえの不快感」でしかないことをまず考えるべきで、その中に「公共性」の訴えがあるかどうかを見極めてから記事にしてほしいものです。
他の方の感想に「病気で走れなくなった息子」という内容がありますが、これは当然に「配慮される公共性」があります。それが配慮されていなかったなら問題であるといえます。
しかし記事の中にある「拒否すれば評価は「1」」というのはむしろ当然の措置です。数学や英語の授業に不参加なら評価は「1」です。小中のような義務教育なら「不登校」などの問題を含めて配慮されるべきですが、高校は任意教育です。
また「人権」に配慮されない「ブラック校則」と、授業に参加しないこと、は別次元の話です。ブラック校則は「人権」という公共性の観点から廃止されるべきものですが、授業に参加しないのは根本的に生徒としての義務を果たしていません。
もちろん補講が「200m泳ぐこと」なのが妥当なのかは議論の余地があります。しかし、水泳の授業に出ない理由そのものが「水着姿を見せたなくないから」などであるわけですから、これは「てめえの快不快」でしかありません。
そもそもフェミニズムからみれば「男性(白人)しか受けられなかった授業に女性(黒人)も参加できること」が重要だったはずです。特に欧米の女性にとって「男性と同等」は大きなテーマであり「公共で(男性同様)胸をさらけ出す権利」を勝ち取る運動すらあります。
そういう「男女平等」の原則からみれば「恥ずかしいから男女別にせよ」という主張自体が男女平等を妨げる意見であるといえます。
日本は戦前のような「男女7歳にして席を同じにせず」を目指しているのですか?それが男女平等に資すると思いますか?
私は思いません。なので水泳の授業を男女別にするとか、配慮せよというのはそもそも「個人的な不快感」であり「男女平等という公共性」という観点からみれば間違った主張である、と認識すべきです。
高校の体育について私も理不尽な事がありました。息子は埼玉の県立高校に通っていました。3年の時に突然病気の為足が不自由になり、松葉杖の生活になりました。病気になる前はバドミントン部も体育も休まずやっていました。その高校は体育は走る事を重視していたので勿論息子は走れません。その時体育の先生から、「走らない子は評定は10段階で3以上にはならない」と言われたそうです。私は怒りが込み上げました。走らないのではなくて、走れないのです。息子はその後難病と診断されましたが、学校は一日も休まず皆勤で、大学も無事に合格して卒業しました。しかしその体育の件だけはどうしても納得が行かず、埼玉県の教育委員会にお話をしました。教育委員会からは丁寧な対応を頂きました。その後その高校が変わったかどうかはわかりませんが、やはり今の時代は教育委員会等にメールなどでも意見が言いやすくなったと思いますので、意見を言う事は大事だと思います。そして多様な世の中になっていっているのに障がい者はまだまだ生きづらいように思います。県立高校にはエレベーターは難しいですし、課題は多々あります。