子どものために福島から自主避難して変わった日常 原発訴訟20日に判決 原告2人の思いは
郡山市から妻子だけ埼玉へ 二重生活で心身も経済面も負担
心臓病の身で、片道3時間を行き来
福島県郡山市で中学校の美術教師をしている瀬川芳伸さん(60)は、2012年6月から妻子をさいたま市に自主避難させ、週末などに会いに行く二重生活を送っている。心身や経済的な面での負担は大きいが、廃炉作業が続く福島第一原発への不安が拭えず、家族が福島に戻ってくる予定はない。「世間では原発事故への関心が薄れているように感じるが、まだ全く解決していない」と訴える。
2011年3月の原発事故で郡山市に避難指示は出なかったが、局所的に放射線量が高いホットスポットが市内にあったことから、被ばくを恐れて妻子を自主避難させることを決意。近くに妻(47)の友人もいるさいたま市を避難先とした。現在、妻と小中学生の息子4人は国家公務員住宅で暮らしている。
仕事を終えた金曜夜に車を運転してさいたま市へ向かい、家族と過ごしたり、日常生活の雑用をこなしたりして、日曜夜に郡山市へ戻る、それらの繰り返し。心臓病を患う瀬川さんにとって、片道3時間の距離を毎週のように行き来する負担は小さくない。
二重生活を始めてから10年がたとうとしており、貯金は目に見えて減った。今年4月に定年退職時の退職金が入ったが、「子どもたちの今後の学費を考えると心もとない」とこぼす。また、新型コロナウイルスの感染拡大以降は家族と会える機会が減り、神経系の指定難病がある妻の家事や育児の負担も大きくなっている。
最近は家族のことを同僚に話すと「まだ避難しているの」と驚かれることもあるといい、福島県内ですら「原発事故がどんどん風化している感じがする」。東電のロードマップでは福島第一原発の廃炉が完了するのは41~51年とされている。福島県内では昨年2月や今年3月に震度6強の地震が起きており、「壊れかけの危険な原子炉が近くにあるのは怖い」と瀬川さん。「また同じような放射能事故が起こるかもしれない」と、家族の自主避難を続ける考えだ。
7歳の四男が高校を卒業するまでは
裁判で原告側は、原発事故前に国は原発への規制を怠るなどし、東電は炉心損傷を引き起こすような重大事故への対策を怠ったと指摘。瀬川さんは15年8月の追加提訴で加わった。将来、子どもに「原発事故が起こって、お父さんはどんなことをしたの」と聞かれた時に恥ずかしくないよう、「原発事故の時に何が起こったかや、事故を防ぐためにどうすべきだったかを検証する場にしたい」との思いからだった。
しかし、裁判での国や東電の対応には不信感を募らせる。「国も東電もこちらの質問をのらりくらりとかわし、何の答えも引き出せなかったように感じる。自分たちの生活を考えてくれているとは思えない」
望んで始まった生活ではないが、息子たちは今、多くの友人に恵まれている。せめて経済的な負担が軽くなればと願い、「さいたま市で生まれた四男(7つ)が高校を卒業するまで、ほそぼそとでいいから妻子が市内で暮らせるようにしてほしい」と判決を待つ。(杉原雄介)
[元記事:東京新聞 TOKYO Web 2022年4月17日]
いわき市から埼玉へ 「どうしようもない結果」の正当性を認めてほしい
孤独な子育てで疲れ果てて泣いた日
「自主避難といわれるけれど、好きこのんで避難したわけじゃない。自由な選択肢なんかなかった」。福島県いわき市から避難した河井加緒理さん(40)はそう話す。現在は埼玉県毛呂山町で、看護師として働きながら高校2年の息子と中3の娘を1人で育てている。
生まれは埼玉県。家庭の事情で県内を転々とし、高校時代は児童養護施設で生活した。いわき市で結婚。2人の子を出産し、家も建てた。「自分が家庭に恵まれなかった分、わが子にはいつでも帰れる家と、友達が大勢いるふるさとをつくりたかった。ただそれだけが望みだったのに」
2011年3月の東日本大震災の発生当時は29歳。東京電力福島第一原発で水素爆発が起き、大量の放射性物質が漏れ出した。「安全だ」「いや危険だ」―。メディアやネットの情報は両極端だった。いわき市は避難区域外だったが、「とにかく子どもの健康のために逃げなければ」と一家4人で車に乗った。
最初は栃木県内の避難所に避難。数週間すると、河井さんの夫は仕事の再開でいわき市に戻った。やがて避難所の閉鎖が決まり、河井さんと子どもは埼玉県の親族を頼った後、県内の公営住宅に移った。別居の夫から生活費は送られず、7カ月後に離婚した。
フルタイムの仕事と孤独な子育てで、心身ともに疲れ果てた。ある日、小学1年だった息子が言うことを聞かず、蹴りそうになった。頭を冷やそうと娘の手を引いて近くのバラ園に行き、ベンチに座って声を上げて泣いた。「何のために避難したんだろう。子どもを守るはずだったのに」
体調を崩し、目まいがして起き上がれなくなった。そんな状態が2、3年続いたが、「このままじゃいけない」と気力を振り絞った。「人を助ける仕事がしたい」と35歳の時に看護学校に入学。4年間の猛勉強で資格を取り、1年前から地元の病院で看護師として働き始めた。
子どもたちが帰れる場所はもうない
2015年、追加提訴で原発訴訟の原告として加わることを決意したのは「なぜ自分がこんな目に遭っているのか、理不尽さを法廷で訴えたい。元の生活を返してほしい」という思いからだった。
東電からのわずかな賠償金は生活費に消えた。それなのに、カーテンを新調しただけで近所の人から「お金がもらえていいね」と心ない言葉をぶつけられた。避難者同士の分断もある。避難指示区域の住民とおぼしき初老の男性に「帰る場所のあるやつは帰れ!」と怒鳴られたことが忘れられない。
子どもは福島を出てからの生活が長くなり、帰れる場所はもうない。東電と国の責任が認められない限り、自主避難は自己責任になり、偏見のまなざしは続く。「子どもを守りたいと避難し、どうしようもない結果として私たちが今ここに住んでいること。その正当性を認めてほしいんです」
「過去には戻れないし、起きたことは変えられない。だから前に向かって歩きだしたい」と話す河井さん。その一歩の後押しとなるのかどうかは、20日の判決にかかっている。(出田阿生)
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