被災地の子どもに絵本を届けて10年 編集者・末盛千枝子さんの思い「何もしなかったら、美智子さまに会わせる顔がない」
「あったー」喜んだ子がいとしくて
―「3.11絵本プロジェクトいわて」を10年間、続けられました。
子どもたちは本当にけなげでしたよね。震災後、保育園のおやつの時間に伺ったことがあったのですが、同じテーブルでおやつを食べていた男の子が「おまえのおじいさん大丈夫だったの?」「大丈夫だった」「良かったね」なんて会話をしていました。それが3歳、4歳の子どもの会話なのよね。ぼうぜんとするような感じでした。
高台にある保育園では、津波で流された家などが逆流してきたのが見えたりしたらしいのね。子どもによっては、自分の家が流されたりしたのを見た子もいました。
持っていった絵本から、自分の好きな本を見つけてそれ持って帰っていいからねって言ったら、子どもたちがわれ先にと探していた。
最後の最後まで探している男の子がいて、「あったー」って喜んで持って帰りました。きっと自分の家か保育園にあった好きな本が、流されて探していたんだと思うんですよね。本当にちょっといとしい感じがしてね。私も同じ本を注文して、その子の思い出に持っています。
―岩手に移住されて1年もたたないうちに3.11でした。運命のようなものを感じましたか。
なんか本当に不思議でしたよね。移住して1年目ですから。友人に「神様があなたに、北の海で一緒に働いてくれっておっしゃったんじゃない」と言われて、そのときはうれしい言葉に涙が出ましたね。移住してすぐで、最初は友達がいないような感じだったのに、活動を通じて今は友達がこちらでもたくさんできました。毎月、お金を送ってくれる友達もいて本当にありがたかったですね。
美智子さまは毎月のように絵本を…
―プロジェクトには美智子さまからも絵本が届けられました。
プロジェクトを始めたのは、岩手にいるのに私がここで何もしなかったら美智子さまに会わせる顔がない、という思いもありました。
美智子さまは毎月のように絵本を送ってくださった。2、3年たったときだったかしら、「私の手元にある絵本の原画をお貸しするから展示してみてもらってくださる?」というご連絡もいただきました。美智子さまも、みんなと一緒に活動しているという思いがおありだったと思います。折に触れてお電話をいただきます。
―3.11から十数年が経過しました。
陸前高田の友達の話が忘れられません。信号のある交差点を車で運転していたら、信号が青になったのに前の車が止まったまま動かない。後ろで待っている人たちが運転している人に対して「もう青になっているよ」と言うと、運転している人は「いくら青になったって人がたくさん渡っているから行けないだろう」って。もちろん実際には誰もいないんだけど、そういう話がいっぱいあるのだと。なんだかとっても切なかったですね。
大船渡の避難所になっていた体育館で、砂の中に小さなぬいぐるみが埋まっていたのを見つけました。小さい子が持って逃げ込んだに違いないと思いました。
砂を払うと、ピンクとブルーの牛のぬいぐるみだったんですよね。うちの子どもが持って歩いていたぬいぐるみを思い出してね。どうしてもそのまま帰れずにバンダナにくるんで持って帰って、しばらく自宅の岩手山の見える窓に置いておいたんですけどね。いつかだれかに返すチャンスがあるかもしれない、と思っていたんですけど、そういうこともなく、まだ家にありますけど。
大人たちにも絵本を見てもらいたい
―今年は「末盛千枝子と舟越家の人々」という展覧会がありました。
(最初の夫の)末盛憲彦が亡くなる前も絵本の仕事はしてたんだけど、確かにそういえば、彼が亡くなったことによって、彼のしようとしていたことのたいまつを持ち続けたい、と思ったんだったなってあらためて気付きました。
こんなにたくさん本をつくってきたんだ、ってあらためて自分で思ったのとね、何と言うんだろう、自分では全然意識していなかったけど、大人の人たちにも絵本を見てもらいたい、という思いはもちろんありましたけどね。それがこんなにみんなに受け入れてもらったんだってあらためて思いましたね。子どものためだったらこの程度でいい、というふうにはつくってこなかった、と。
―大人にも絵本を見てもらいたい、というのはどういうことでしょうか。
忘れられないのは、とても親しかったある方が絵本が好きで、自分の部下が転勤していくときに必ず(絵本作家の)ゴフスタインの絵本をプレゼントしていました。すごくわが意を得たり、と思いましたね。病気だったその方にゴフスタインの「ピアノ調律師」という絵本を送ったら、「人生で自分が好きなことを仕事にできるほど幸せなことがあるかい、というメッセージ、確かに受け取りました」という返事が来てすごくうれしかった。
プーチン大統領に、絵本を届けたい
―千枝子さんというお名前は、お父さまが高村光太郎さんに会いに行ってつけてもらったとか。
父は高村光太郎さんが訳した本を読んで彫刻家になろうと決めた、と言うんです。「千枝子」という名前の重みから逃げようとしていましたよね、若いときは。だけど今になって、これでよかった、と言える感じがしますけどね。
―ご不幸も経験された。どのように乗り越えてこられたのでしょうか。
一つには、大変なのは自分だけじゃない、という思い。小さいときからいろいろ大変な人たちを見てくるじゃないですか。子どものときには、中学生ぐらいだったかな、渋谷の駅とかそういうところに傷痍(しょうい)軍人が白い服着てアコーディオンを演奏していましたしね。いろんな人たちがいて、みんなそれぞれが大変なんだということを思っていましたね。
一番きつかったのは末盛が亡くなったときかもしれない。すっごく優しい人だったんですよ。だからその人が亡くなったということはものすごく大変だったですね。でも皆さんがすごく助けてくださった。
―ロシアのウクライナ侵攻が続いている。絵本には平和への思いも込められていると思いますが、今、何を思われますか。
無力感ですよね。ウクライナの若い大統領、頑張っているが、だんだんやつれてきている。(美智子さまの講演録の)「橋をかける」はロシア語にも翻訳されています。プーチン大統領に絵本を届けたいぐらいです。
インタビューを終えて
岩手山を望む、おしゃれなご自宅でインタビューに応じていただいた。部屋のあちこちに絵画などの芸術作品があり、日常に芸術が溶け込んでいた。洗練された絵本を送り出し、震災後の子どもたちにやわらかなまなざしを注ぐ源に、このような暮らしがあるのだと感じた。「3.11絵本プロジェクトいわて」の絵本がどれだけ子どもたちの心の支えになっただろう。
部下に絵本を送るとは、すてきなエピソードだと思った。大人になってからはあまり絵本に触れてこなかった記者だが、そんな大人に憧れる。幸い、近所に絵本の図書館や絵本専門店がある。今度ゆっくりと訪れてみたい。
末盛千枝子(すえもり・ちえこ)
1941年、彫刻家・故舟越保武氏の長女として東京で生まれる。4~10歳は保武氏の郷里・盛岡で育つ。NHKディレクターだった末盛憲彦さんと結婚、2人の息子に恵まれたが、結婚11年後に憲彦さんが急死。その後、本格的に編集者として歩み始めた。自ら設立した出版社「すえもりブックス」で、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが選・英訳された「THE ANIMALS 『どうぶつたち』」や、講演をまとめた「橋をかける 子供時代の読書の思い出」を手がけた。2010年5月に岩手県八幡平市に移住。今年4~6月に市原湖畔美術館(千葉県市原市)で「末盛千枝子と舟越家の人々」が開催された。著書に「『私』を受け容れて生きる」(新潮社)など。
なるほど!
グッときた
もやもや...
もっと
知りたい
ラジオ深夜便をお聴きして、大変な苦難を乗り越えられたその後の行動にすごく感動して、微力ながら私に出来る事を地域にお返ししなければと思っています。