パティシエ 辻口博啓さん 失踪した父を憎んだが…再会の末に思えた「父のおかげ」
和菓子屋の2代目 倒産して家も店も…
父は、石川県七尾市にあった和菓子屋「紅屋」の2代目でした。私の部屋は厨房の真上で、鉄板の匂いでどら焼きの皮を焼くとすぐに分かり、ボイラーの音で何を蒸すのかも分かったほど。いつも父の後ろ姿を見て、いつか紅屋を継ぎたいと感じていました。
ただ、小学3年生の時、初めて食べたショートケーキに感動し、夢はケーキ職人へと変わりました。高3で両親にパティシエへの夢を告げたら、2人は何一つ反対しなかった。やりたいことをしっかりと受け止めてくれました。
しかし、東京で修業を始めた2ヶ月後に紅屋は倒産してしまい、家も店も全て失いました。父は「東京で働く」と言って家を出たまま、連絡が途絶えました。残された母は、朝から晩まで3つの仕事を掛け持ちして妹と弟を育て、18歳だった私は、自らの力で道を切り開いていくしかなかった。父に対して憎しみしかありませんでした。
30代後半の時、出演したテレビ番組で実家の話をしました。すると、それを見た江戸川区役所の職員から電話があり、「身寄りのない、末期がんの患者が病院に運ばれてきているが、もしかしてあなたのお父さんではないですか?」と。以前、七尾市で紅屋という和菓子屋を営んでいたと話しているというのです。
18年ぶり よみがえった思い出と感謝
病院に行くと、半分くらいに細くなった父が横たわっていました。会ったのは18年ぶり。「なんでこうなっちゃったんだよ」と情けなくて。でも、しっかりと見つめられるうち、子どもの頃の思い出が一気によみがえりました。
その後、手術が成功して出かけたり、話したりするようになりました。父は風呂もないようなアパートに住んでいたんですが、本棚には私の本が何冊かありましたね。マンションを借りるよう勧めたんですが「自分はそんな身じゃないから」と断られました。
父は「紅屋をつぶして申し訳ない」という思いが強かった。私も失踪当時は、情けなさや恨みもあった。けれど、あの経験があったから、本気で仕事をしていくんだ、という気持ちを確立できて、いろんな経験もできました。父には感謝しているし「胸を張ってほしい」と伝えました。
2004年には和のスイーツ店「和楽紅屋」を開業して、紅屋を復活させることができました。父は喜んでいて、親孝行ができたと思います。職人として居ても立ってもいられなかったみたいで、「厨房手伝おうか?」なんて張り切っていました。私がいない時にも店の様子をのぞきに行っていたみたいですよ。
再会から6年後、父は亡くなりました。お墓には「笑顔前進」という言葉を彫りました。父やご先祖に伝えたいと大事にしている思いです。これからも会社や家族のために頑張りたい。そんな気持ちになれたのは父のおかげだと思います。
辻口博啓(つじぐち・ひろのぶ)
1967年、石川県七尾市出身。1990年、全国洋菓子技術コンクールで最年少優勝。1998年に開業した東京・自由が丘の「モンサンクレール」をはじめ、国内外に店舗を多数展開する。スーパースイーツ製菓専門学校(石川県)校長や日本スイーツ協会代表理事も務め、スイーツ文化の発展に取り組んでいる。
なるほど!
グッときた
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コロナ禍で仕事も外出も制限されたこの3年間に食に関する興味が増して、特にお菓子、スイーツにハマりだし、兵庫で有名なS小山のスイーツレシピの本を熟読。素人でも大変おいしいスイーツができると思い、主にチーズケーキづくりに勤しみました。
なにのきっかけだったか忘れましたが自由が丘のおいしいケーキやさんという事を知って1度は食べてみたいと自由が丘へ行ってみました。
日本のパティシエの作るケーキってなんでこんなに繊細なんでしょうか。きっと食べる人へのおもてなしの心が宿るのだと思います。
辻口氏のパティシエ世界一の本も読ませて貰い人となりを拝見するとものづくりの人々の熱い思いが伝わってきます。
本場のフランスよりも美味しいお菓子を作り、探求の心を忘れないパティシエ達にエールを送りたいです。
辻口博博啓シェフが全国洋菓子技術コンクールで最年少優勝された時、業界誌の記者として取材をさせて頂きました。喜びの涙を流されていたのが、印象に残っています。あれから33年の時代の流れと共に、世界に羽ばたくシェフになられました。立派に成長をされた姿を、天国からお父様も喜んで見守っていらっしゃることでしょう。私も記事を拝見しとても懐かしく、うれしく思いました。