写真家 宮崎学さん 野山をかけずり回る少年時代 勉強が嫌いでも両親は「好きなことをやれ」

有賀博幸 (2025年2月2日付 東京新聞朝刊)

写真

写真家の宮崎学さん(有賀博幸撮影)

画像・家族のこと話そう

各界で活躍する著名人がご家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです。

母に「少年ケニヤ」を読んでもらって

 おやじは青年時分、旧満州(中国東北部)に渡り、終戦前に伊那谷(長野県)に引き揚げてきました。次男で、実家に田畑を分け与える余裕はなく、新聞配達の仕事に就きました。おふくろは岡谷(同)の製糸工場で働いていて、結婚を機に地元に戻り、4人の子育てをしながら近所に借りた畑で野菜を作っていました。体は小さいのにとにかく働き者でした。

 幼い頃、おやじが新聞販売店から持ち帰る新聞に「少年ケニヤ」という物語が連載されていました。アフリカの山野を少年が駆け巡り、さまざまな野生動物に出合う冒険譚(たん)です。おふくろをせっついては布団の中で読んでもらったものです。野生動物に関心を抱くきっかけになりました。

 少年時代は周りの野山をかけずり回っていました。鳥の巣を見つけて卵を採ったり、おやじに教えてもらった手作りの捕獲器で鳥をつかまえて飼育したり。小学高学年時分には野鳥の鳴き声を聞き分け、鳥が言葉を持っていることも知っていました。

 せっかく親に「学」という名前をつけてもらいましたが、学校の勉強は嫌いでね。何でみんなと同じことをしなくちゃいけないんだと。当然成績は悪く、高校に行きそびれました。両親は息子の進路に何も言いませんでした。「自分の好きなことをやれ」と。昔は教育に関する情報が少なく、あれこれ言えなかったこともあるのでしょう。

レンズの部品会社に就職、写真家の道へ

 中学卒業後に勤めたのが、カメラの交換レンズの組み立てをしていた地元の精密部品会社で、カメラとの最初の出合いです。その頃、上京していた五つ違いの兄貴が「写真家になる」と、写真の専門学校に行き始めたんです。そんな世界があるのかと知り、「ならば俺は地元にいて動物の写真を撮る」と。自分の進むべき道が見えた気がしました。ミノルタの一眼レフを10カ月払いの月賦で購入し、会社勤めをしながら伊那谷の野生動物を撮り始めました。

 17歳の時、アサヒカメラの月例コンテストに、夜空を滑空するムササビを撮影した写真が初応募で入賞。その後も入賞や年鑑への掲載を重ね、23歳でプロデビューしました。20~40代は国内で営巣するワシ・タカ全16種の撮影や、故郷中川村の山中に小屋を設けてフクロウの生態撮影、写真週刊誌「FRIDAY」の連載では全国各地を飛び回りました。大きな賞をもらっても、親からは「よく頑張ったな」と言われたくらい。周りに吹聴するわけでなく、静かに見守っている感じでした。

 おやじは30年前に79歳で、おふくろは9年前に98歳で他界しました。自分が写真家という面白い人生を歩んで来られたのも、子ども時分から自由にさせてくれた親のおかげです。おやじは弟が旧満州で戦死していますし、現地での自身の体験からも、人の生き方についていろいろ悟っていたのではないかと思います。

宮崎学(みやざき・まなぶ)

 1949年、長野県中川村出身。82年に「鷲(わし)と鷹(たか)」で日本写真協会新人賞、90年に「フクロウ」で第9回土門拳賞を受賞。95年には「死」で日本写真協会年度賞に輝いた。自然や野生動物を通じて人間社会を写すことをライフワークに、同県駒ケ根市のアトリエを拠点に野生生物の撮影を続ける。写真塾「gaku塾」主宰。

0

なるほど!

2

グッときた

0

もやもや...

0

もっと
知りたい

すくすくボイス

この記事の感想をお聞かせください

/1000文字まで

編集チームがチェックの上で公開します。内容によっては非公開としたり、一部を削除したり、明らかな誤字等を修正させていただくことがあります。
投稿内容は、東京すくすくや東京新聞など、中日新聞社の運営・発行する媒体で掲載させていただく場合があります。

あなたへのおすすめ

PageTopへ