『「3+1=5」にマルをつけた数学者』に反響 「算数だけの話ではない」「長い目で子どもの成長を信じている」
今川綾音 (2021年7月9日付 東京新聞朝刊)
『「3+1=5」にマルをつけた数学者が語る、子どもの算数の見守り方』という記事を先月公開しました。誤答に○を付けることの是非も含め、投稿欄やツイッターで議論が活発化しています。
取材した神戸大大学院教授の谷口隆さん(44)は2児の父。「間違いのプロセスを子どもから丁寧に聞き取ることが大事」という姿勢に、「親も子も忙しく、早く早くと焦るように勉強してしまいがちな今、大事な視点」と反響がありました。
算数でつまずき文系に進んだという読者は、「『ここまでは分かってる』の助言があればやる気が出せた。子ども時代にそのサポートがあれば違ったのかも」と振り返ります。
保護者からは、「どんなふうに考えたの?と聞くと、子どもは一生懸命、得意げに説明してくれる」との投稿も。中には「算数だけの話・問題だけではない」と、子育て全般に広げて考えてくれた方もいました。「子どもの考えを最後まで聴くこと。ジャッジではなく、『こういうことかな?』と子どもの思考や思いをわかろうとするスタンスが、自分の考えを持ち、さまざまな感情を親や周りの人に伝えられる子育てにつながる」とつづります。
22歳の読者は教育全般の視点から、「目の前のことを0か1か(正解か不正解か)で判断せず、長い目で見て子どもの成長を信じている姿勢がとてもすてきです。このような思慮深い教育はAI(人工知能)には難しいのでは」と指摘。人間である親や先生だからこそ交わせるやりとりを、大切に楽しみたいと感じました。
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なるほど!
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グッときた
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もやもや...
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もっと
知りたい
塾で教えていますが、算数や数学がうまくいかない人というのは、こちらの想像を超えたところがあります。
xの項同士を足し算(および引き算)しているのに、なぜかxの2乗の項が(スグ)出て来てしまう、くくり出しをしているのに、3項あったはずが、カッコの中は2項で平気(?)などなど、こちらにしてみると、授業中は驚きと「発見(?)」の連続で、まったく気が抜けません。「そうまでするか」という感じです。
何年か前までは、そういうとき「怒り狂って」いましたが、今ではその境地は脱し、この記事の先生のように(?)なんでそう考えるのだろうと、できるだけ「彼」の考えの筋道をたどってみようとしてみるのですが、経験からすると、その試みは達成が至難です。それを「私」に説明できるくらいなら「彼」は、課題をクリアできていただろう、というのが実態だからでもありましょう。
「私」からすると、とにかく「彼ら」は「自由奔放」で、手がつけられないといった感じです。
「数学は、ルールを決められて、そのルールでゲームをやる(ような)ものだから、ルールを守ることが先決で、(君の)好き勝手にしてはだめ。発明は(今は)だめ。」というのが、「私」の従って欲しい「思想·信条」なのですが、このような「信条」は「彼(ら)」にはたいへん受け入れ難いもののようで、「彼ら」はとにかく「自由」にしたい(つまり、間違いたい、あるいはそれで良いとなって欲しい(?))ようです。
こうしたところにかなり深い、大きな溝が横たわっており、できればそれを乗り越えたい(そして、自由に「行き来」したい)というのが、目下の「私」の課題です。
私は元高校教員の立場から氏に反対する。
やはり中等教育までの数学の特性上、○×は明確にするべきだ。氏の思考にできるだけ沿うようにするなら、×を付けた上で、どこが誤りなのか丁寧に説明を重ねれば良い。よく「世の中に出れば正解は一つでないことに気付くだろう」と訳知り顔に説教してくる人がいるが、そんなことは当たり前だ。○×をはっきりさせることで、生徒は数学という教科の特徴と物の考え方の一つを学ぶのである。そこを曖昧にすると生徒は確固とした価値観が形成できなくなってしまう。数学を学べば誰でも(数学が)出来るようになる訳ではない。ましてや全ての生徒が(数学が)好きになる訳でもない。数学が出来なくても、国語や英語、美術や体育が出来れば良いではないか。日々の学びの中で得手不得手を知ることが、自分の中の適性の自覚につながり、的確な進路選択につながるのである。そのような意味で、ある教科・科目がぶれることで徒に生徒を迷わすことは害悪ですらある。
いいとおもう