杉戸の女学校に落とされた爆弾 8人が犠牲 記憶を次世代に託すため、元教諭らがつづった「町の歴史」
生徒7人と男性1人が犠牲に
「天気が良い暑い時だった」
杉戸町で代々続く酒屋に生まれ育った髙橋明さん(87)は当時、国民学校(現在の小学校)5年生だった。友人ら数人と遊んでいる時、複数の米軍機が通過するのを見た。そのうち1機が折り返し、爆弾を落とした。落下地点から離れていたのに「地震のようなすごい衝撃とズドーンという音がした」という。
髙橋さんはすぐに女学校に駆けつけたが、集まっていた大人たちから帰れと言われて近付けなかった。翌日、再び行くと衝撃的な光景が広がっていた。校庭に大きな穴が開き「(周りの)木の枝には爆弾の破片と人肉が付いていた」。
町が発行した「杉戸町の歴史」と「杉戸町史」によると、米軍機は群馬県内を空襲して帰還する途中だった。校庭の穴は直径10メートル、深さ2メートル。爆風とともに破片や土砂が飛び散り、生徒7人と校舎内にあった県立土木公営所の職員1人が犠牲になったと記録されている。
その日は朝から空襲警報が出て、生徒たちは校庭の避難壕(ごう)にいた。しかし蒸し暑さと、警報から数時間が経過していたこともあり、一部の生徒は壕から出て実施中の試験の勉強に取り組んでいたという。
子どもたちを爆撃するなんて
「杉戸町の歴史」の近代以降を執筆した長堀栄さん(75)=幸手市=は「米軍は、軍事施設でも軍需工場でもない場所と分かっていたはず。戦闘員ではない子どもたちを爆撃するなんて、どう考えても理不尽だ」と指摘する。
長堀さんは戦後生まれだが、いとこがこの空襲の犠牲者の1人で、父親に話を聞かされていた。しかし、町内の小学校教諭となった後でさまざまな資料を調べたが、ほとんど記載がなかった。女学校は戦後すぐの1948年に杉戸農業高校に統合され、跡地には町役場が建っていた。
「記録は残りそうで残らない」と実感した長堀さんは、学校の業務後などに地元の人や関係者に聞き取りをして、6年生の授業で扱った。「教科書で習う遠くの出来事ではない戦争を伝えたかった」という。昭和60年代に教育委員会に移り、「杉戸町の歴史」にこの空襲をつづった。
町役場敷地内には戦没者慰霊塔が立てられ、碑にこの空襲の犠牲者名と説明も刻まれている。町は新人職員の研修に、空襲についても触れている。講師を務める町教育委員会社会教育課の小沼幸雄さん(57)が「空襲というと都市部のイメージかもしれませんが、杉戸町でもありました。場所は今みなさんがいるところです」と語りかけると、ほとんどが「初めて知りました」と驚くという。
「このままでは本当に風化してしまう」と危機感を持つ小沼さん。「私ももうすぐ定年になるが、他の職員が伝えていけるように引き継いでいきたい」と語る。すぐそこにあった戦争の犠牲の記憶を、細々とであっても次の世代に託していきたいと願っている。
なるほど!
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知りたい