漫画家 宮川サトシさん コンビのようだった母 亡くなってからもエネルギーくれる  

(2018年11月18日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

母への思いを語る宮川サトシさん(稲岡悟撮影)

女の子だと思って僕を育てた母 兄弟で一番の仲だった

 僕が生まれる前、母は女の子がほしかったそうです。年の離れた兄が2人いたので。そしたらまた男の子。そこで母は僕を女の子だと思って育てようと切り替えたみたいです。兄2人の食べかけのお菓子やバナナとかがあっても、母は絶対食べないんですけど、僕が食べかけた物は食べられるって言ってました。兄弟の中で、僕が母と一番仲が良かったです。

 大学生になって白血病にかかりました。入退院を繰り返し骨髄移植もしたので、1年間休学し、5年かかって卒業しました。母は本当に心配していました。体力が落ち、すぐ風邪をひくんですが、それらが命取りになることがあります。もともと仲が良かったですけど、病気になってから、いっそうコンビみたいに一緒にいた感じがします。

夜中に一緒に見たDVD 「あした見ようか」「1時間だけ」

 病気はなかなかよくならず、卒業が近くなって重くなりました。就職の内定を辞退し、卒業後は小さい学習塾を始めました。空いた時間に会員制交流サイト(SNS)の「ミクシィ」に映画の絵コンテみたいな作品をアップしていたのが、漫画家の仕事につながっています。

 塾からの帰りが午後10時とか11時とかになっても、母は必ず待っていました。帰宅後、借りてきたDVDを一緒によく見ました。時間が遅いと僕が「あした見ようか」と言うんですけど、母は「1時間だけ」と言って結局最後まで見て、午前2時ぐらいになることもありました。

 両親は共働き。母は定年まで勤め、別会社のパートでがんになるまで働き続け、2011年に亡くなりました。僕はそれまであんまり泣いたことはなかったんですが、この時はすごく落ち込んで、わんわん泣きました。

うろたえた経験が作品に「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」

 一方で、母の死に、そこまでうろたえていることを「そんな面もあるのか」と客観的に見る自分もいました。この発見が面白く、面白いものは描かなくてはならないとの思いから発表したのが、漫画エッセー「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」(新潮社)です。

 母が亡くなった後、岐阜から上京しました。別に母が重しではなかったんですけど、死んだ母が大きなエネルギーになり、その勢いで一歩を踏み出せました。人の死は悪いことばかりじゃなくて、誰かの背中を押すことがあります。母の死後、僕にはすごくその感覚があります。死は悲しいばかりじゃない。亡くなってからもエネルギーをもらい続けていることを含め、いまだに母に対してありがたいなって思いますね。 

みやがわ・さとし 

 1978年、岐阜市出身。本名・宮川聡。2012年に「東京百鬼夜行」でデビュー。14年に刊行した「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」は映画化され、来年2月に公開される。子育てエッセー「そのオムツ、俺が換えます」など連載中。

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