俳優・シンガーソングライター 中川晃教さん 授賞式で止まらなかった涙 優しい祖母に晴れ姿を見せたかった
亡くなるまで2年半のふたり暮らし
30代半ばの頃、母方の祖母と2人で暮らした時期がありました。祖父亡き後、祖母が1人で住んでいた東京の一軒家に僕が入ることになり、祖母が84歳で亡くなるまでの2年半、一緒に生活しました。
子どもの頃は両親や兄、妹と暮らしていましたが、18歳でデビューして上京後は、ずっと一人暮らし。仕事でくたくたになって帰ってきても誰もいない。祖母と住むようになり、「おかえりー」という言葉が聞こえるようになって、すごくうれしかったです。
僕は祖母のことを、おばあさんと呼んでました。夜、僕が帰ると「おなかは?」と聞いてくれる。僕は食べてきたとしても「ちょっと食べたい」と言って甘えてましたね。おばあさんは料理が得意で、ちゃちゃっと焼きそばやサラダを作ってくれました。公演中だったと思いますが、「今日あなた大変なんだから、これ食べて頑張りなさい」と朝から天ぷらを揚げてくれたこともありました。
稽古場でお昼を食べる機会があったときには、お弁当を作ってくれました。おかずは厚焼き卵とサケとつくだ煮。ごはんの上にピンク色の桜でんぶがのっていて、子どもの頃以来の味にウキウキしたのを覚えています。僕のために買ってきてくれたのかなと、優しさと思いやりをかみしめながら、稽古場のベランダで食べましたね。
「ジャージー・ボーイズ」で演劇賞
舞台やコンサートの新しい仕事が入ると、すごく喜んでくれて、一番に報告したい人でした。後に知ったんですが、おばあさんは近所の人や知人に「今度、孫が出るのよ」とチラシを渡したり、自慢したりしていたみたいです。僕のことを「若い恋人」と冗談めかして言ってました。
おばあさんは女学校時代、学校帰りに銀座のダンスホールに通って、踊っていたそうです。芸能や歌が好きだったんですよね。それもあって、僕を応援してくれていたのかなと思います。
おばあさんが亡くなった年、初演のミュージカル「ジャージー・ボーイズ」で主人公を演じ、いくつもの演劇賞をいただきました。僕にとって大きなターニングポイントでしたが、その姿を見せることはかないませんでした。生きていたら喜んでくれただろうなと思い、授賞式のときには涙が止まらなくなりました。
2人で暮らした日々はとてもいい時間でした。だからこそ、家庭を築こうという思いが芽生えたし、今もその家に住んでいます。近所の人から「すごくお世話になった」と聞くことも多くて、祖父母が築き上げてきた「心の道」の上に自分がいるんだ、しっかりしなくちゃと思いますね。
これからもミュージカルだけでなく、ジャンルを問わずどんな歌でも歌える自分を目指していきたい。そんな姿をおばあさんが見ててくれたらうれしいなと思います。
中川晃教(なかがわ・あきのり)
1982年、仙台市出身。2001年に歌手デビュー曲で日本有線大賞新人賞。2016年、ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」で読売演劇大賞最優秀男優賞などに輝く。昨年、同舞台の出演者とコーラスグループ「JBB」を結成。今年6月からコンサートツアーに臨む。名古屋公演は6月3日、東京・八王子公演は6月5日、静岡・三島公演は6月7日。
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フジコ・ヘミングさんのピアノ演奏を聞いた以来の衝撃でした。
今や食事を取るがごとく彼が歌う「手紙」を聞いています。至福の時間ありがとう。
中川さんの舞台を見に行ったのは、まさに亡くなられたおばあさまからの勧めでした。「孫がね」と楽しそうに話されていたのを懐かしく思い出します。
素敵な歌を舞台をきっとおばあさまも遠いところで楽しみにされていると思います。ご活躍を期待いたします。
素晴らしい表現力と歌唱力をお持ちの中川晃教さん。1ファンの私でも私の推しはこんなに凄いと自慢したくなります。
自慢の孫と一緒に暮らした時間はおばあ様にも宝物だったでしょうし演劇賞受賞も必ず見守ってくれていたはず。
才能を努力で磨き続ける中川さんをこれからも応援します。