宮口治子参院議員 「子どもに障害があるなら選挙なんか出るよりも」と言われ…だからこそ社会を変えたい〈ママパパ議連 本音で話しちゃう!〉
長男の障害がわかって自分を責めた
参院議員の宮口治子です。前回コラムを担当された衆院議員の仁木博文さんからバトンを受け取りました。仁木さんからはこんな質問を頂いています。
「宮口さんはキャスターなどを経て、双子を含めた3人の子育てをされてきたとお聞きしました。大変なご苦労もあったかと思いますが、どんなふうに子育てに臨まれてきたのでしょうか」
ご質問にも頂いたように、私は双子の長男と次男、そして年子で生まれた長女の3人の子育てをしてきました。長男と次男は今年21歳。二卵性なので顔は全然似ていません。そして、後ほど詳しく書きますが、お兄ちゃんには障害があります。長女は20歳になりました。
長男に障害があると気づいたのは、1歳半の時のことです。健診の時に保健師さんから検査を受けた方がいいですよ、と言われたのがきっかけでした。
振り返ってみれば、双子の2人の成長は全然違っていました。お兄ちゃんは言葉がなかなか出てこなくて。「おかしいな」と思いながらも普通の生活をしていましたが、2歳で検査を受けて「広汎性発達障害」という診断を受けました。お医者さんからそう言われたとき、正直どんなものかもわかりませんでした。どんな症状なのか、一生続くものなのか、それともすぐ治るのか。もう目の前が真っ暗になって、その日はどこをどう通って帰ったか覚えていないくらい。当時はインターネットでいろいろ調べても、参考になるような情報はほとんど出ていませんでした。
それから半年間ぐらいは、普通に生活していても勝手に涙が出てきたのを覚えています。将来に対しての不安と、この子はどうやって生きていくのかという不安と。「誰かに支えてもらったり助けてもらったりしないと、この子は生きていけないんじゃないか。他人に迷惑をかけることになるなら、もう2人で死のう」と考えたこともありました。
でも、誰が悪いわけでもないんです。最初の頃は「自分がパソコンを使いすぎて電磁波が影響したのかな」「添加物を多く含んだものを食べたかな」「薬を多く飲みすぎたかな」と、何とか原因を探し出しては自分を責めていました。私の両親からも、「あなたの言葉掛けが少ないんでしょう」「双子だから言葉が遅いんじゃないの」「テレビばかり見せてるから言葉が遅いんじゃないの」といったことを度々言われました。私自身も最初の子育てでよくわからなくて、不安ばかりでした。
障害があることがわかってから半年くらい経って、ようやく前を向けるようになりましたね。「泣いたところで何も解決しないし、子どもたちが悪いことをしたわけでもない。何で私泣いているんだろう」って思ったんです。子どものことを報告していた恩師からの手紙に「神様は乗り越えられない試練を与えることはないよ」ということが書かれていて、その言葉に「そうだ、私は受け止めてやる。落ち込むんじゃなくて、自分磨きも頑張りながら育てよう」と心に決めました。ママ友も「早く前を向かないと子どもはすぐに大きくなっちゃうよ」って励ましてくれて。「そうだな、悩んでる暇があったら次に進もう」って思えたんです。
3人の子育て 病気が連鎖して…
冒頭で紹介したように、双子の下に年子の長女も生まれ、20代後半は乳幼児3人の子育てに追われていました。元々していたリポーターの仕事への未練もありました。テレビをつけると同期のリポーターの子たちがキラキラ輝いていて、それを見るのがつらい時期も正直あったんです。育児って一日一日の積み重ねじゃないですか。子ども3人を抱えて何やってるんだろう、と思うこともありました。でも「人生ってバネだ」と思うようにしましたね。縮む時期もあれば、いつかそれが糧になってビヨーンって伸びることもあるから、いつか伸びてやるぞ」と。当時は本当にいろいろと考えていました。
振り返って一番大変だったのは、3人の誰かが病気になった時です。1人が病気にかかると、1週間くらいたって必ず次の子にうつるので、結局皆が元気になるのに1カ月くらいかかるんですね。そうすると、公園デビューして仲良くなった他のママたちに「一緒にご飯行かない?」「公園行かない?」って誘ってもらってもなかなか行けない。よく多胎育児は孤独になる、と言われますが、まさにそれでした。
元夫は大学病院勤務の医師だったので、夜中の呼び出しもしょっちゅう。子どもたちがあっちこっちで吐いていても当然行かなくてはなりません。私1人では到底3人見切れなくて、私まで一緒に泣いてしまう時もありました。双子って2倍じゃなくて2乗の育児だなと。同じタイミングで寝たりご飯を食べたりしてくれたら良いんですけど、バラバラですから。
3人を同時に寝かせられたのは唯一、ドライブです。とはいえ、車に乗せるまでがとても大変。双子用のベビーカーは、横に並べて座らせる横タイプと前後に座らせる縦タイプがあるのですが、当時住んでいたマンションのエレベーターは横タイプが入らずに縦でもギリギリ。縦のベビーカーに2人乗せて、背中に1人おんぶしてようやく家を出ていました。
やっと外に出ても、誰かがうんちをするとまた戻っておむつを取り替えてもう1回準備。そんなことを繰り返して、ようやく車に乗せ(チャイルドシートに3人!!)、走り出したら一安心。そのうち3人とも静かになって…「寝た!」と思ったら、河川敷とかに車を停めて、自分の好きな本をちょっと読んだりして、息抜きをしていました。でも誰か1人が「えーん」って泣き始めると、またちょっと運転して車を動かして。そうやって1時間半とか2時間くらい寝たのを見て家に戻るということをずっと繰り返していましたね。
長男は意思疎通がなかなか難しかったので、特に心配事が絶えませんでした。例えば、紙パンツはいつ取れるだろう、というのは不安でした。「出たよ」と言葉で言えないので、なんかモゾモゾしているな、とこちらが気づいてあげて、出ているかどうかチェックしておむつを替えるんです。
長女が3歳の時、お兄ちゃんがまだ紙パンツをしていたので「なんでお兄ちゃんはまだ紙パンツなのに私は取らなきゃいけないの」と言ったんです。きっとお兄ちゃんだけずるい、って思ったんでしょうね。その時に「見えないけど、お兄ちゃんは頭の中に傷があるからしゃべれないの」「見えないけど病気なんだよ」と説明したら、「そうなんだ、ふーん」とすんなり理解してくれました。療育施設の先生からは、きょうだいにも隠さないことが大事だって言われていたんです。だから正直に、わかりやすいように伝えることを心がけていました。
育児で一番大事にしたことは、1人ずつ向き合う時間を取ることです。例えば娘とは、お料理教室に行く時間を作りました。双子のお兄ちゃんたちは義理の母などに見てもらい、その時間は娘とだけ。一緒にクッキングしたり、積み木で遊んだり。次男は次男で一緒にお出かけしてお買い物に行ったり好きなおもちゃを買ったりする時間を必ず1週間に1日作っていました。長男は児童発達支援センターという療育施設に通いましたが、母子通園だったので、朝10時から午後2時までずっと一緒でした。
母子通園については、最初はなぜ母親がずっといなきゃいけないのかと思いましたが、結果的にそれがとても大事なことでした。同じ思いのお母さんと話もできるし、やはり自分の子どもの特性をよく知ることが大事なんですよね。私自身、多くの学びがありました。発達障害の子ってもう10人が10人個性がバラバラ。彼がどういう特徴を持っていて、どういう個性があって、どう関わっていけば生きやすくなるんだろうかということを先生と一緒に考えました。
最初はできなかったシール貼りができるようになった瞬間も見られました。一緒に「訓練」という療育をしながら、向き合えた。卒業の時にその子の「サポートブック」というのを作るんです。いわゆる彼の育児書ですね。こういう時にこう言われると怒りますとか、こういう時にはこんなふうに要求をしますとか。それがあれば、今度は周りの人に彼のことを知ってもらうことができる。預かってもらう時にもとても役立ちました。
長男がこの療育施設にたどり着くのにも苦労しました。お医者さんでは診断を受けた後に施設の一覧をもらうのですが、一体どの施設がどういうことをしていて、どこが子どもに合うのかがわからない。そういった説明をしてくれるところもない。結局、最初はもっと症状の軽い子が通う施設に入れてしまい、無理やり座らせるような療育をしてしまった。そのため座るのが嫌いになってしまい、座れるようになるまでに1年ほどかかりました。行政がつなぐ機能を果たすのはなかなか難しいと聞きましたが、当事者の親にとっては切実な問題。コーディネートする機関の必要性を今も強く感じています。
仕事復帰、PTA、そして出馬へ
仕事復帰しようと思ったのは、子どもたちがみんな小学生になった頃でした。私もそろそろ何かできるかなと。しゃべる仕事に戻りたいと思い、地元のFMの面接を受けてパーソナリティーになりました。
手は離れたけど、やっぱり子どもたちから目は離せない。娘はいろんな話を聞いてほしくて「お母さん、お母さん」と話しかけてきてくれる。ただ、例えば原稿を書いたりとか、次の週の予定を考えたりしている時に話しかけられると「ちょっと待って、後でね」となっちゃいますよね。でも「後でね」って言うと、もう二度と話してくれないんですよ。再び仕事を離れた後は普通に話を聞けるようになって、本人も満足してくれるようになりました。3人は公立、私立、特別支援学校とそれぞれ違う学校に進学していたので、仕事を辞めた後は、順番にPTAに取り組みました。それぞれの学校の特徴や問題点を知る貴重な機会になりました。
政治に接するきっかけとなったのは「ヘルプマーク」でした。これは目に見えない病気や障害のある人、術後の人、妊婦さんなど幅広い人が使えるもので、表からでは見えづらいしんどさを抱えてる人がつけると、周りから「あの人なにかあるのかな」と思ってもらえるマークなんです。
ある時、息子を乗せて障害者専用の駐車場に車を停めたとき、息子が車から降りた際に「健常者が利用しとるんか」と怒られたことがあったんです。息子は、身体は元気なので、普通に車から降りられます。ただ、突然走り出したりするから、混雑した駐車場は特に危ないんですね。ただそれは見た目ではわからない。何かそういう彼の状況がわかるものがあればいいのにと思っていて、気がついたのがヘルプマークだったんです。東京都ではすでに配布されていました。周りの障害のある子どもを育てるお母さんに聞いても、知らない人が結構多い。これを広げたいという仲間12~13人で集まって普及活動に取り組みました。
出馬の直接的なきっかけは、2019年の参院選で起きた河井克行・案里夫妻の選挙違反事件。当時、立憲民主党が候補者を探していたところにご縁あってつながりました。正式な出馬依頼があった日の午後に、次男が受験していた大学の合格発表があり、これは運命だなと、覚悟を決めました。母も「応援するからやりなさい」と背中を押してくれた。私には、目の前にあった政治とカネの問題だけでなく、教育や福祉といった改革したいテーマがあり、全く初めての政治活動もやれるかもしれないと思えたんです。選挙活動が始まって、広島市内で演説をする私の姿を見た子どもたちが「頑張れ頑張れ」って一生懸命叫んでいたと聞いて、本当にうれしかったですね。
選挙に出るとき、「子どもさんに障害があるんだったら、選挙なんか出るよりも子どもと向き合ってあげなさい」と声をかけられたことがあるんです。言われた瞬間は「そういう子がいるのに選挙に出るなんて私は悪い母親なのかも」と考え込んでしまいました。でもこれまでの経験は自分にしかない経験で、自分なりに思いを持って当事者の人たちに寄り添って考えていくことができる政治家になれるんじゃないかなと。
そもそも女性議員が増えない要因は、まさにここにあって、家事や育児、介護などのケアが当たり前に女性の役割になっていることが大きい。そして働くことがだんだん難しくなるという状況自体が問題なんです。国が共働きを後押ししているのに、社会的な受け皿が不十分で、女性の皆さんがすごくしんどい思いをしている。
「女性だから子どもの世話をすることが当たり前だ」と思っている人がたくさんいる以上、女性が安心して働いて活躍する社会はまだまだ遠い道のりです。例えば「子どもさんがまだ小さいのに大丈夫ですか」って、男性には聞かないじゃないですか。こうした部分が変わらないと、社会も変わっていかないですよね。そういった社会の受け皿の仕組みを作るところが議員の仕事としてやらなくてはいけないことの一つなのだと考えています。
最後に、選挙のあり方についても思うところがあります。私が出馬した3年前の選挙は、夜遅くまでやって早朝から手振りが当たり前。倒れるまでやるという雰囲気がありました。そろそろ選挙のあり方は変わっていいと思う。議会で子どもを預けられるような環境作りも必要だと感じます。事例がないから、というのではなく、子育てとの両立を実現できるように、選挙のあり方も法律も前向きに変えていかなくてはいけないと思っています。
宮口治子(みやぐち・はるこ)
広島選挙区、1期、立憲民主党。1976年3月5日、広島県福山市生まれ。大阪音楽大卒業後、KSB瀬戸内海放送キャスター、フリーアナウンサーなどを経て、2014年からヘルプマークの普及啓発活動を行う任意団体の代表として活動。21年4月の参院広島県選出議員再選挙で初当選を果たした。文教科学委員会、資源エネルギー・持続可能社会に関する調査会で、いずれも野党筆頭理事を務める。
(構成:政治部・坂田奈央)
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