【虐待防止月間・下】「私には実家がいっぱいある」 15年間の虐待に耐え、里親を選んだ私が思うこと

 祖父や両親からの虐待に15年間耐え続けた20代の鈴木美香さん(仮名)は、中学3年生で保護された。「私一人を見てほしい」と、里親家庭へ。一人暮らしをする今でも「実家」のように頼りにしている。9月には活動家の山本昌子さんが監督した映画「REALVOICE」の上映会が地元であり、「虐待の後遺症」をテーマに山本さんと対談したことで「社会的養護をよりよくする力になれるのでは」と、取材に応じた。

 11月は児童虐待防止推進月間。国がさまざまな事情で実親と暮らせない子どもを、施設から家庭的養育へとする方針を打ち出して13年。児童養護施設と里親のもとで育った2人の女性の言葉から、社会的養護のあり方について考えた。

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山本さんとの対談で「今虐待で苦しんでいる子に思いを届けたい」と考えるように

祖父母宅も実家でも激しい面前DV

 鈴木さんは、乳幼児期に兄と祖父母の家に預けられた。祖父は毎晩のように酒に酔い、暴言を吐き、祖母に手を上げた。娘である鈴木さんの母親のことがうとましかった祖父は、「顔が似ている」という理由で鈴木さんにもいら立ちを向けるように。冷蔵庫も風呂も「勝手に使うな」と言われ、食事にありつけない日もあった。

 夜7時にはいつも家中が真っ暗になる。祖父が「お前らがいるだけで金がかかっているんだ」と怒鳴ってブレーカーを落としていた。飼っていた猫も寄り付かないような人だった。

 小学校に上がり、両親と暮らせるようになった。今度は、父親が母親の首を絞め、「死んじゃうんじゃないか」と思うほどのけんかが2、3日に1回続いた。怖くていつも部屋に閉じこもっていた。父親は鈴木さんが寝ている布団に入って体を触ったり、お風呂に入ってきたりした。

 鈴木さんは、体調を崩すと嘔吐(おうと)してしまう体質。ベッドの上で吐くと、母親は「おまえ、このシーツどうすんの」と声を荒らげた。そんな時、父親は風呂場で服を洗ってくれた。

 叱られる時は、玄関の外やリビングのドア付近に決まって立たされる。母親と行ったスーパーで、欲しいペンやお菓子を持って行くと「しょうがないな」と買ってくれるが、家に着いたとたんに豹変する。「あんなレジ前で持ってこられたら買うしかないでしょう」「買わないと私がおかしい人に思われる、もっと大人になりなさい」と怒鳴られ、4時間くらい立たされ続ける。父親が帰宅すると、殴られ、2時間くらい罵声を浴びる。これが日常だった。

母をかばっていたら始まった暴力

 高学年になると、母親はますます機嫌が悪くなり、精神障害のせいでときどき幻覚を見るようになった。母親から数十件もの電話が学校にかかり、出ると「あんた、男と遊び歩いてんじゃないの」と怒鳴られた。「隣の家の人が悪口を言っているから、私は死んだ方いい」と言いながら、包丁で手首を切ろうとしたこともあった。「そんなことないよ、大丈夫だよ」と励まし続けた。

 兄は、母親のことを「恥ずかしい」といい、暴力を振るうようになった。止めに入るうち、「おまえのせいだ」と標的になった。父親とともに、殴る、蹴る、首を絞める。包丁を向けてきたことや、足で顔を踏まれたり、湯船に顔を沈められたりしたこともあった。逆らっても、逆上されるだけ。「このまま死なせて」と思いながら、されるがままでいた。

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里親はいろんなところに遊びに連れて行ってくれた

 それでも、毎日の家族の食事を用意するのは、鈴木さん。中学校で夜9時に部活を終えて帰宅すると、みんながご飯を待っている。母親はどこに行ったか分からない。自分がスーパーに行って、夕食を作るしかなかった。後片付けや宿題を済ませ、布団に入れるのは深夜。朝4時には起きて、兄の弁当や母親の薬を用意して、登校する。学校でよく嘔吐した。家族のことを唯一話していた保健室の先生は、通報しないでと伝えていたので、ただ愚痴を聞いて「寝不足だよ」と心配してくれた。

虐待に耐えるのは自分で選んだ道

 保健室の先生に「家を出たい」と言って、逃げ出す方法もあったかもしれない。それをしなかったのは、母親が同じ暴力を受けたら死ぬと思ったから。いつも不機嫌な母だが、楽しかった思い出もある。小学校に入りたてのころ、学校に行きたくなくて不登校ぎみだった鈴木さんに、父親は「行けよ」と怒ったが、母親は「しんどいなら休めばいい」とピクニックやお花見に連れて行ってくれた。

 どんなに父と兄から暴力を受けてもあざになることはなかったが、中学3年の時に初めて顔に傷ができた。マスクをして登校したが、校長先生に気付かれた。保健室の先生は担任に情報を共有していたようで、担任の先生が「けがをしているから、児童相談所に電話するよ」と通報した。駆けつけたケースワーカーに保護は断ったが、何かあった時のためにと「189(いちはやく・児童相談所虐待対応ダイヤル)」の案内を渡された。

 翌月、車の中で「このままじゃ、死ぬ」と思うほど、2人の暴力はエスカレート。商業施設のトイレに逃げ込んだ。迷ったが、戻ったら本当に死ぬかもしれない。「助けてください」と189に電話し、保護された。

 児童養護施設で集団生活になるよりも、自分一人を見てくれそうな環境がよかった。「普通の家庭」がどんなところか知りたかった。ケースワーカーが熱心に思いを聞き取ってくれ、里親家庭に行くことに決まった。

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奨学金の応募書類に書いた「希望」の文字。これまでなんとか生きてきた。奨学金で安定した大学生活を送らせてほしい、との願いを込めた

子どもに合う養育環境を見極めて

 里親は、60代の女性で夫は単身赴任中。猫好きで、仲良くなるのに時間はかからなかった。こたつでのうたた寝から目が覚めた時、布団がかけられていて「親っぽいなぁ」とうれしかった。大雨の日、車で学校まで迎えに来てくれた時は、お風呂上がりで「なんか髪がべたべたする。リンスつけっぱなしできちゃったかも」と笑うような、どこか抜けている人。「やることが面白くて、毎日笑わされた」

 育った家庭の話をすると、風邪をひいて親に怒られるのは、父親が体を触ってくるのは「普通じゃないよ」と教えてくれた。どこの家も同じだろうと思っていたが、そうじゃないと初めて知った。

 行く前は不安しかなかったが、1週間に1回の頻度でケースワーカーが来て、話を聞いてくれた。自宅近くには、保育士らが常駐する子育て支援センターのような施設があり、友人とのいざこざや恋人との悩みなど、年が近い保育士に気が晴れるまで聞いてもらった。

 居心地がいい家だったが、高校2年で出ることになった。里親が、5~6人を預かるファミリーホームを始めるから。鈴木さんは大学受験に集中するためにも、子ども一人の環境を求めて、別の里親家庭に移ることにした。不安はあったが、前の家庭でのル-ティンを引き継いでくれて、奨学金の制度などを親身に調べて教えてくれる夫婦で、今では移ってよかったと思う。「どちらの家庭も実家です、私には実家がいっぱいある」と鈴木さん。「子どもの個性によって、施設が合う子と里親が合う子に分かれると思う。一人一人に合う環境を大人がちゃんと見極めてほしい」と話している。

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里親家庭が暮らす子どもの村福岡。近所の子どもが庭で遊ぶなど地域に開かれている(SOS子どもの村JAPAN提供)

里親を支えるため「密室育児」にしない

政府は家庭的な環境で暮らすことができる里親を推進しているが、微増にとどまっている。社会的養護に詳しい立命館大の石田賀奈子教授は、「育った環境で左右されないためにも、社会的養護の中で複数の選択肢があるべきだ」と指摘。さまざまな専門職が集う児童養護施設に対し、里親と里子は孤立しがち。「里親だけでなく、専門職が入りチームでの養育が望ましい」と話す。

例えば、福岡市の「子どもの村福岡」には、複数の専門家が里親を支える仕組みがある。1000坪ほどの敷地に一軒家が5軒並び、そのうち3軒に里親3人と未就学児~中学生の里子11人が3~4人ずつ暮らしている。敷地内のセンターハウスと呼ばれる施設には、児相や学校との連携役となるソーシャルワーカーが1人、各家庭を支える保育士が2~3人ずついる。保育士は、養育の相談にのったり、里親が忙しい時間帯に一緒にご飯を作ったりして養育を補助する。

「1週間に1日くらいは休みを取りましょう」と里親に呼びかけ、日帰りでも泊まりでもいい。家を空ける時は、保育士が家庭に入る。非常勤の心理職が、里親や里子のケアの必要度に応じて、サポートに入る仕組みもある。国際NGO「SOS子どもの村」(本部オーストリア)の取り組みの一貫で、世界130以上の国と地域で展開する。SOS子どもの村JAPAN事務局次長の藤本正明さんは、「子育ては密室化を防いだ方がいい」といい、「里親が悩みを抱え込んでしまう時間を短くするためにも、相談するしないにかかわらず、日々を見守るスタッフが気付いて支援に入る」点が特徴と話す。

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