タレント ハリー杉山さん 僕と父の間には愛情と友情しかなかった
知的でチャーミング、人にもてる父
日本をこよなく愛した父でした。イギリス人のジャーナリストとして1964年の東京五輪の開催から、日本を世界にずっと伝えていました。
ニューヨーク・タイムズの東京支局長などを務め、小学校に入る前の僕を有楽町の日本外国特派員協会の記者会見に連れていくんです。内容はほぼ分からなかったですが、自分の思いをちゃんと伝える重要性を感じました。
僕は父を「ヘンリー」といつも下の名前で呼んでいました。父は僕を「ハリー」と呼んだので、珍しい関係だったと思います。僕はイギリスの高校を卒業後、日本でモデルをして働いたことがあり、家族も支えたくてロンドン大学を中退して芸能の道に進みました。父は、僕が司会をする音楽番組の収録を見学に来てくれました。僕と父の間には愛情と友情しかなかった。知的でチャーミングで、人にもてる父に憧れました。
パーキンソン病、認知症と診断され
そんな父だったので、2012年にパーキンソン病、認知症と診断され、僕と母の在宅介護が始まった時、ショックは大きかったです。午前3時にスーツを着て出勤しようとしたり、母を母と判別できずに突き飛ばしたり。24時間神経をとがらせていました。
自分が知識を備えていないと、全身全霊の介護はかなり危ないです。感情論で動いて、僕と母が世話したら元気になるという根拠のない自信があった。だから、僕は介護の講演会で話す時は、知識の必要性を1番に訴えます。
父は2016年から介護施設に入所。僕は週に2、3日通い、父の好きな音楽を聴かせながら、マッサージしました。自力で立てると父の顔に喜びが表れました。ところが、コロナ禍でまったく会えなくなり、無力感すら感じました。
ありえないくらい空が青かった日に
2022年3月に父が誤嚥(ごえん)性肺炎になり、施設に駆けつけました。受け入れてくれる病院が見つからず、搬送に7時間かかりました。救急車に同乗しているとサイレンや医療機器のアラームが耳をつんざき、父に死が迫っている地獄を肌で感じました。
容体が落ち着くと、母と僕、父で過ごせる時間が欲しいと病院に頼みました。だってコロナで2年会っていないんですもん。4月に施設に戻ると、最初は驚くほど元気で、僕と目が合うと、「俺ってまだ生きてるの」と話せるようになったほどでした。
テレビ番組の企画で長野マラソンに挑んだ4月17日、ありえないくらい空が青くて、父の声援というか、力を感じました。自己ベストを出したと母に報告すると、スタート前に父が亡くなったと教えてくれました。
やれることはすべてできたので、父の介護に後悔はないです。先日のテレビの別企画「100キロサバイバルマラソン」で優勝した賞金は、ほぼ母に渡します。母は父の人生を支えてきたので、今やりたいことをしてほしいです。
ハリー杉山(はりー・すぎやま)
1985年、東京出身。2008年、音楽番組の司会で芸能活動を始める。日本語、英語、中国語、仏語を操り、モデルや俳優など幅広く活躍。2021年の東京五輪を前にオリンピックのYouTube公式チャンネルで東京の街の魅力を発信した。NHKBS1の番組「ランスマ俱楽部」に出演し、自身はフルマラソンのサブスリー(3時間切り)を目指す。
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