俳優 高畑淳子さん 物のない時代に生まれ貪欲に生きた母「私は走りながら考えるんじゃ」

五十住和樹 (2025年2月23日付 東京新聞朝刊)

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家族との思い出を語る高畑淳子さん(市川和宏撮影)

カット・家族のこと話そう

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです

超ハンサムな父に猛アタック 

 母は昨年暮れ、数え95歳で亡くなりました。うま年生まれで快活な人。「私はなぁ、走りながら考えるんじゃ」なんて言って。私もうま年で、うまの親子なんです。

 小さなころ体が弱かった母は、健康オタク。支給された白い帽子と白い体操服で公園のラジオ体操に行く。「大きな木の下で深呼吸するとな、絶対病気にならん」って。結局病気らしい病気はせずに穏やかに逝(い)きました。

 結婚前、銀行を「お給料が安い」と辞めて洋裁を習い、家に縫い子さんを集めて洋服を作って、すごくもうけてました。終戦直後で皆おしゃれしたい時代。ダンスホールで背が高くて超ハンサムな父を見初めた。当時の父は無職でしたが、「大丈夫。私がお針で食わせるから」って猛烈にアタックしたそうです。

 嫁いだらそれはもうまめまめしく働いて、わが子はほったらかし。私は2人の弟が早産で亡くなっていたので一人っ子。つまらなくて家の門の前で土をほじったり、道行く人に「おばちゃん、どこ行くん。行くとこあってええな」って声をかけていたらしい。それを見ていたのか、私を保育園に入れました。

 料理が上手で、私が小学生時代のお誕生会にはクリームを載せた焼きリンゴ。家族向けにはホールケーキを焼いてくれた。父は家に帰ると母に「砂糖水、ちょうだい」とねだる甘党で、当時は冷蔵庫の中に電動のアイスクリーム機があった。卵と牛乳と砂糖を入れて30分くらいガランガランと動く。出来たてですごくおいしい。父は「アイスクリームもできるな、ほな、そろそろ風呂入ろかな」って、風呂上がりに食べてました。

定年後、定時制高校で学んだ父

 父は、目の不自由な自分の父親の同行をしていて時間が取れず、ほかの兄弟は皆受かった海軍兵学校を自分だけ落ちた。会社に入ってからは猛勉強して2級、1級建築士を取って、高松市に自分が設計して家を建てました。

 上京してからは「若い時できなかったから、もう一回勉強したいんや」と定年退職後に定時制高校に入学。「給食がおいしい。金髪のお兄ちゃんと一緒に食べよんや」と喜々として通った。ヤマハの音楽教室にも通い、タキシードを作って小さい子と一緒に発表会に出て「小犬のワルツ」とかを弾いたんです。そんな中、膀胱(ぼうこう)がんに気付かず、見つかったときはステージ4。77歳で亡くなりました。

 好きなだけおしゃれをしたい、おいしいものを好きなだけ食べたいと貪欲だった母。したいときにできずに晩年に勉強に精を出した父。戦前からの物のない時代を生きた反動だったのかもしれません。

高畑淳子(たかはた・あつこ)

 1954年、香川県出身。桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻を卒業し、76年に劇団青年座に入団。舞台や映画、テレビドラマなどで活躍中。2013年に菊田一夫演劇賞演劇大賞、14年に紫綬褒章。3月6日から東京・下北沢の本多劇場で上演する舞台「Lovely wife」に主演する。

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