生まれないほうが幸せ「反出生主義」に反響 「同じ境遇…励まされた」「出産で価値観が変化」 識者はどう見る?
両親に恵まれず「子ども持たない」
愛知県刈谷市の女性(46)は「同じような境遇や思いの人がいると知り、とても励まされた」と書いた。父親がギャンブル依存、母には無視されて育った。「こんなことは私で最後にしたい」と考え、子どもは持たないと決めた。ただ、周囲に子どもを持つことを勧められて知識を深め、「今ならちゃんと子育てできるかも」と悩んだ時期も。「焦らないでしっかり考えてみては」と気遣った。
子どもを産んだ女性からの投稿も多かった。両親が不仲で、幼い頃から「無」でいたい気持ちが強かったという同県の女性(44)は「孤独でいる勇気がなかった」ため結婚し、「夫やその家族の手前、子を持たないという選択もできず」に出産。そうした思いを話したことはなかったといい、「人知れず悩む人は多いと思う。前向きでない繊細な思いを女性が伝えてくれて、掲載されてありがたかった」。
「産んでみよう」自分をだまし出産
石川県の女性(35)は20代の頃、「満足に育てられない、こんな腐った社会で子どもは産めない」と考えた。ただ、「妊娠適齢期は限られている」との思いも。子育てを社会で支える考えが広まりつつあると感じ「産まずに後悔しても取り返せない。ならば産んでみよう、と自分をだまし言い聞かせた」。今は子育て中で「産まなければよかったとは思わない」という。
結婚や出産で考え方が変わったのは、愛知県豊川市の女性(41)。幼い頃から無気力で自分を卑下することが多く「子どもが苦しむことになるのに産むのは自分勝手」と感じていた。転機は前向きな性格の夫との出会い。「自分の価値を自分で決めること自体がエゴと気付いた」。出産後は夫の家族の笑顔に囲まれ「人生は自分だけのものではないと、考えがグラデーションのように変化した」と振り返る。
人は一生を通して成長するもの
千葉県の男性(71)は「この世に命を授かったからには力の限り生き抜いて。それがほんのわずかでも誰かを喜ばせることにつながるかも」と訴え、愛知県碧南市の女性(68)は「人はつらいこともうれしいことも経験しながら、一生を通して成長するもの。努力を惜しまなければ幸せを得られると思う」と呼びかけた。
神奈川県の女性(31)はアルコール依存症の父が母を殴る家庭で育った。「子どもが将来どんな苦労をするかは分からず、子を産むのは親のエゴ」だと感じ、「子どもが生まれるのは善という価値観を変えたい」とも。出産した人には社会通念上「おめでとう」と声をかけるが、「かわいそうに、また犠牲者が生まれたと感じる。自分は産まないし、できれば他の人にも産んでほしくない」と話す。
生きているだけで頑張っている
愛知県春日井市の50代女性は、息子が15歳の頃に「まともに育てられないのに、自分たちの快楽のために子を産んで」と責められた。「僕はなんで生きているの、死んだ方がいいよね」とも。息子の悲しさを知り「つらさや気持ちをできる限り理解しよう、何事も否定せずに聞こう」と考えるようになった。
21歳になった息子は引きこもっていて「生きづらいのに、生きていてほしい、と思うのも私のエゴ」と思う気持ちもある。「生きるのは当たり前ではなく、一日一日を生きているだけで頑張っている。笑顔になれたことを思い返しながら過ごし、いい思い出をためていって」と記事の女性を思いやった。
なぜ反出生主義が注目? 識者に聞く
「死んだ方がよい主義」ではない 学習院大・小島和男教授
2006年に南アフリカの哲学者デイビッド・ベネター氏が哲学書「生まれてこないほうが良かった」を発表し、注目された。生まれれば快楽も苦痛もあり、生まれなければ快楽も苦痛もない。両者を比べると、苦痛がある前者の方が害悪で、人類は絶滅する方がよい、と説く。
2017年に邦訳された「生まれてこないほうが良かった」の訳者の一人である小島さんは、「反出生主義は攻撃的な思想で悪の秘密結社のような発想と思われがちだが、全然そうではない」と強調する。「生まれてくる以上は苦しみがあるので、その苦しみを減らしていこうという考え。害悪を増やすのはよくないので、子どもは産まない方がいいという話になる」
ただ、ベネター氏が主張するような反出生主義は、「(後で死ぬより今死んだ方がよいという)死促進主義ではない。生きてしまっている自分を大切にしましょうという考え方」と説明する。
さらに、「始める価値と続ける価値は違うというのが重要」と語る。生まれてきたのは自分の意思ではなくても、「じゃあ死んだ方がいいかというとそれは違う。われわれは始める価値はなかったけれど、大抵の場合は続ける価値はある人生を生きている」。
小島さんは、ベネター氏のような考え方の人が、特に若年層で増えていると感じている。貧困が進み、アルバイト代を生活費に充てる貧しい学生も多い。
「生きていることがつらければ、生まれてこない方がよかったと思うのは当たり前。切ない話だが、実感として反出生主義が受け入れられやすい世の中になってしまった」と分析する。
残りの人生どう生きるかのヒントに 早稲田大・森岡正博教授
反出生主義には、さまざまな考え方があるというが、森岡さんは「簡単に言えば、全ての人間は生まれてこない方がいいし、全ての人間は産むべきではないという思想」と説明する。
森岡さんによると、哲学の世界では2000年以上前から同様の考えが存在。古代ギリシャでは「生まれてこないのが一番いい」と誕生を否定する考えが見られ、古代インドには、「生まれることは苦しみだ」という思想があった。
20世紀になって、出産を全面否定する考えが加わった。「日本でよくみられる反出生主義は、子どもを産むべきではないという主張が多い」と森岡さんは指摘。その理由について、そう考える人が実際に増えた可能性のほか、「考え方は昔からあったけれど、言語化されなかった可能性もある」という。
一般社会では、これまで出産はほぼ肯定的に語られてきた。産むことを否定的に捉える考えは「すごく目新しいし、見る人にとっては衝撃的だと思う」。
森岡さんは、2020年に発表した著書「生まれてこないほうが良かったのか?」で、ベネター氏の主張を批判的に論じた。人生の大事なことを快か苦痛かという2つだけの要素で考えることは単純化しすぎで「人間が生きることの多様性が無視されている」と語る。
自身が反出生主義に共感する部分もある一方で「既に生まれてきてしまっている人が、誕生否定的な考えを持ったまま死んでいくのはすごく残念。有限の人生を生きようとする人が、残りの人生をどうしたらいいかを考えるヒントや、議論の下敷きにしてほしい」と期待する。
なるほど!
グッときた
もやもや...
もっと
知りたい
今大学生で資格の勉強しています。思えば例え受かってもADHD持ちの私は働きたくありません。別のみちで子供産むにも子供は可哀想で産みません
ゆく道道が絶望しか無くてほんとに頭おかしくなります。やってられませんね。世間の人はこんな辛い世の中で頭おかしくならないのでしょうか
なぜ昔の人はこの世を「世界」と名付けたのでしょうか。この世は「地獄」で、あの世が「世界」なのでは。
産まれてきたくなかった。寝てる時が一番の幸せです。寝たままぽっくりといけばいいのに
若い頃は親の暴力がありながらも、未来があるとなんとか頑張って生きていました。あとは当時は余り情報がなく、辛いながらも生きるしかなかった。
私は余り頭がよくないので深く考えず、子供を産みましたが、子供が20歳で自殺しました。
私に似た性格で、この世界で生きるには辛かったと思います。生まれてきたくなかったとも言ってました。
愛情をかけて育ててもやはり性格が似ると生きづらいという感覚まで似てしまうのだと感じました。
夫に似た性格の兄の方は同じ地域、環境、学校でも楽しく生きています。同じ辛い事柄があっても感じ方、捉え方、回復までの時間の長さが兄弟でも全然違うのです。
まるで私と夫が正反対の様に。
この世に生をうけて楽しく生きられるか、どうかは遺伝子できまる部分が大きい気がします。
もちろん環境もありますが、良い環境であっても幸せを感じる事があっても、真に生まれてきて良かったと思えない性格の人間もいると思います。
若い頃は親が愛情を注げば、子供は幸せになると思っていましたが、若い私がこのサイトの様な考え方を知っていれば、子を産むことをためらっていたと思います。
貧乏でも見た目が悪くでも明るい性格で人生を楽しんでいる方もおられます。大した不幸がなくても人生つまらないと言う人もいます。
私の性格は生きるには向いていないので、この遺伝子はなくなって欲しいと感じる様になりました。
子供産むのは慎重に考えるものだと思いました。
死にたいと言うと、「日本に産まれただけで運が良い、アフリカの子供たちや北朝鮮の子供たちを見てみなさい」と言ってくる自己愛者がいるが、そもそも仏教は輪廻転生の考え方で、死んだらその国に産まれ変わりとしてその国に産まれる可能性もあるんだよね?
そんなリスクあるガチャ回したくないし、そもそも産まれなかったら、そういう国の状況知らなくて良かったし
「日本に産まれただけで恵まれてる」との意見を目にすると、なんで自分は恵まれてる国に産まれたのに上手く生きていけないんだろうと自己嫌悪に陥ります。
最近は子供は観賞用金魚と一緒だということに気が付きました。「自分が寂しいから」「子供を育てることで自分の成長を感じられる」「親の言う通りにしなさい」等
良く言えばペット、悪く言えば観賞用金魚ですよ
本当に(笑)
「死んだ後は、天国に行きたいなー。地獄はイヤだから、悪いことはしないでおこう」と小さい頃は考えていた。ところがビックリ、この社会が地獄だったとは。
一生懸命生きるほど、心身がボロボロになっていく。良心を殺して生きなきゃならない。親孝行なんてする気にならない。
子どもは親の言うことを聞くものだ!親に意見するなんてとんでもない!と、人の意思を軽んじてきたんだから。
記事では、哲学の専門家の見解が述べられていますが、私には内容がサッパリわかりません。どうせなら現場でカウンセリングやNPOでの活動を通して苦しんでいる人を助けている人を教えてほしい。残りの人生、苦しみを減らしたくてこのサイトにたどりついたのだから。
脳の障がいで、育ってきた環境の影響で、他の大多数の人たちが経験していることを自分はほとんど経験できないまま、もうすぐ中年に差し掛かろうとしている。
例えばいまだにキスはおろか女性と手すら繋いだことがない。ちなみに現在39歳です。性の経験が無いというのはこの社会ではかなりのスティグマであると感じています。
「この世界は楽しいことや素晴らしいことに溢れている」そんなふうに言われるたびに死ぬほど腹が立つ。自分には何の縁もないのだから。飢餓の自分の目の前でご馳走を食べている様子を見せつけられるような残酷さを感じながら生きてる。
人生が拷問に近い。生まれてきたのに、この世界に生きているのに、人生は一度しかないのに、ほとんどのことを経験できないまま、虚しく時間だけが過ぎてく。自分はただ他の人たちが楽しそうにしているのを、分厚いガラス越しに眺めるだけ。最大の皮肉だと思うし、最初から存在しないことよりも遥かに残酷なことだと思う。
生まれてきたことを恨んでいるし、自分の体が憎い。なんの障がいもなくて、家族にも恵まれて、自分の経験できないことを経験している人間達のことも心の底から憎んでいる。そんな醜い自分のことも。
こんな思いするぐらいなら生まれてきたくなんてなかった。今は何もかもが憎いです。
こんなにくるしんでいるのに公にはできないという二重のくるしみ。このサイトを見つけて、自分だけじゃないんだと知って心がやすらぎました。
うれしさやたのしさがぜんぜん、無いわけじゃない。でも心身の苦痛や、老いや病や貧困、まわりの者に先立たれるかなしみ、そして最後は自分におとずれる死という究極の恐怖。それらのものに見合うほどのうれしさやたのしさやよろこびが、果たして人生のなかにあるだろうか?こんなおもいをしてまで本当に生まれてこないといけないのだろうか?
人間は自由だと言う人は多いけど、実際は何もえらべないまま生まれて、後ろから追い立てられるように大人になって、それなのに最後には死しか待っていない。くわえて現代ではもう、死後の幸福な世界を信じることも難しい。何の救いもない。ワケワカンナイまま生まれて、ワケワカンナイまま死ぬ。人間は一度生まれたが最後。死ぬまで自分の体に縛りつけられている。肉体は監獄で、人生は死ぬまで終わらない懲役。
こんなこと誰にも話せなくて、他のどこにも書けなくてとてもくるしかったです。
結婚したい相手もいない。子もいらない、ただ早くぽっくりと1人で死にたいと思うようになってきてる人です。
覚悟はできてる。生き物は皆産まれたらそういう末路だから
このまま少子化で増税、年金払いは増え貰える額が少なくなる。世の中に子を産みたくはないって思ってます
子供も老後も見てくれる人もこれからどんどん居なくなる。米も食べられなくなるだろうと、
あと、アメリカみたいに日本の男子には魅力がありません……自己中な方が多くとても自分は呆れてしまいました
自分が良ければと結婚したい理由が家政婦がほしいだけ寂しいからだとか…まるでこれじゃ親と子 夫婦なんていう話じゃない…
弱々しすぎる……2次元の方がほんと良いとか思ってしまう
女は産むのにリスクが伴う反面、夫は何もしないとイライラ。女が何もしなければ夫が女に対してイライラ…
兄弟皆県外にでて自分は県内でほんとにショックしかないし出ていきたくもなくなってしまい、地元の近いとこで車も費用高いので持てず夢見てきてたのにもういいやと思ってます
生きてきて幸せなことももちろんありましたが、常に苦痛を感じてきました。自分の性格や容姿、体質を子供に遺伝させることで子供は苦労するでしょうから、子供は諦めました。
自分自身の不幸には諦めがつきますが、子供の不幸にはきっと耐えられないと思うからです。
本当はそんな気兼ねをせずに子供を産みたかった。何も深く考えずに子供産める人がうらやましい。大した苦労もせず生きていたんだろうなと憎しみすら抱いてしまいます。
「ある一人の人間の人生が、自分が産むことで始まる」。その意味合いを子供を産む方はどこまで考えるのでしょうか。それとも深く考えてすらないのでしょうか。
子を産むのは自由であって欲しいと思いますが、生まれてくる子供のことを、これから一から生きる人間のことを、落ち着いて真剣に考えて欲しいです。
結婚して7年。子供を持つかずっと悩んでます。
理由はいろいろありますが、今のこの世に生まれるのはかわいそう。両親や友人、職場の人はみんな、子供を持つのが幸せだと言います。そんなの分からない。私の気持ちは理解されないと感じます。考えすぎて辛く、考えるのをやめたいけどやめられない、といった感じです。
自分自身は生まれてこれて良かったと思っています。両親にも恵まれました。幸せに過ごしてきました。それなのに自分の子供を持ちたいと思えないところに後ろめたさを感じるのです。
何が正解なのか分かりません。
小学生の時から生まれてこなければよかったと思っていた。今は結婚して、旦那と二人暮らし。家事は進んでやってくれて、私のすべてを受け入れてくれる。暗い私をいつも笑顔で照らしてくれる。
そんな旦那は子供を望んでいる。私は子供がいらないと思っていたが、結婚して一緒に暮らしてみて、旦那となら子供を産んでも幸せに暮らせるのではないかと思う。
何が正解か分からない。皆さんの意見を見るとやっぱり子供をもつことが怖いと思える。考えれば考えるほど分からない。産んでも不安、産まなくても不安。不安が渦巻く。
昔から、ぼんやりと死にたいと思ってきました。小学生の時、魚釣りに行って川を覗き、ここで溺れて死ねたらすべての苦痛から解放されると考えたり、わざと全速でこいだ自転車の車輪に足を突っ込んだり。大学二年でようやく病院に行き、鬱だと診断されました。(反出生主義に出会ったのは大学の講義で。)四年生では教授からのパワハラ(卒業させないぞ等)、就活の惨敗、部活動でのトラブルなどにより自殺未遂。いまは療養中で、反出生主義についてずっと考えています。
もともと、両親は幼い頃に離婚し、その後すぐ母はチンピラ上がりの酒浸り男を連れ込みました。母の彼氏は平日でも昼間から酒を飲み、酔って私をなじります。妹と比べて私なんかが会社にきたら最悪だななど。母はいつもそれを見て、知らないフリ。毎日自分の部屋で暴れているか、泣いているかでした。
大学にも苦労して入りました。私立大学のスポーツ推薦の話が来たのに、レギュラーになれなかったとき、授業料が発生するのではという懸念から、スポーツ推薦は却下され。公立大学の学費も、受ける前から毎日のように母と、離婚した父がいくら払うのかで橋渡し役をしました。私は授業料年間十数万ですが、妹は何故か年間百万円以上の専門に何一つ揉めることなく母が全額払いました。
差別を感じながら、苦労したら報われると信じていました。しかし、人生に待ち受けるのは絶望です。苦痛です。なぜ生まれてこなければならなかったのか、私は頼んでいないのに。では、そもそも生まれてくることが間違いなのでは?と思い至りました。子どもはかわいいから生みたいと言っている人は、本人には言いませんが非常に無責任だと思います。
生まれてこないことこそ、最大の幸福です。生まれてきたいかどうか、赤ちゃんに確認できるシステムだったらな、と思いました。
結婚して3年経ち、子を設けるか悩んでいます。もし授かれば、その子には出来る限りの幸せをあげたいと思うし、生きていて良かったと感じてもらいたいです。その反面それはエゴだとも思いますし、私自身生きていてしんどかった時期もあるので、同じ思いをしてほしくないという気持ちもあります。だからといって『反出生主義』が世の中の人にとって善だとも言い切れません。ただ、こういう考え方の人もいるんだ、と認めてほしいなと思います。
今日の一見平和な日本において、少子化が進んでいることこそ、(この言葉は知らずとも)反出生主義がベースに流れている証拠でしょう。
私も反出生主義に賛同する者ですが、別に、今すぐ死にたいとは思いません。生まれてきたからには、また自分の仕事を全うするためにも、健康に留意して、仕事に励んでいます。
ただ、現世で頑張るから、いつかあの世に行ったら、先にあの世に行った愛犬とのんびり過ごしたいと思ってしまいます。この世という地獄で、生まれてきたくなかったのに、一生懸命生きたのだから、もう許してほしい。
友人知人には言わないが反出生主義です。妻はいますが子供は敢えていません。生まれてくることで痛みや苦しみが生じます。しなくていい苦労だと思っています。
子孫には一つの苦労もしてほしくないです。これは私の愛情、優しさからの想いです。
ご先祖さまには悪いですが私の代で終わらせます。親や祖父母には育ててもらい、助けてもらい感謝しています。今の生活にも満足しています。ありがとうございます。
人間という存在は、
生きる事や子孫を残す事の他に
欲が特に多い動物だと感じます。
そしてその数が増えれば増えるほど、
問題が増えるのです。
生まれなければ、
痛み、苦しみ、悲しみ
何も知らずに済んだはずなんです。
いっさい問題のない
綺麗なままでいられたのです。
元からない『無』だったら
どうだったのだろうと…。
何故人は生み出されるのでしょうか。
そもそも生きているだけで苦痛を感じるし、多くの動物を殺さなきゃいきていけないから、人間は増えないほうがいいと思う
偶々この記事が目に入ったので書き込みます。37歳の男です。両親が出来婚で、自分が生まれてすぐ離婚、父親を見た事が無く、母親の体質も弱く(各種アレルギー、気管支喘息、自律神経失調等)見事にそれが自分に遺伝、平均から比べても相当貧乏な母子家庭で育ちました。
母からは「弱い体に産んでしまってごめんね」と言われた事があります。聞いた瞬間、色々諦めがついたというか、自分は生まれて来るべきではなかった存在だと思ったのを覚えています。バックグランドが劣悪な場合、子供は作るべきではない。そもそもそれ以前に、異性と出会いのある人生になるとも思えない。
大人になり、自分が所謂アスペルガー、自閉症という事が判明し、いよいよ先が見えなくなってきています。人間不信でもありますし、親を恨んですらいます。1人で育ててくれた母親には大恩がありますが、「そもそも無責任に子作りをしなければ」「一時の情事に流された結果、劣悪な命が生まれたのでは」という結果論が生きている限り付きまとうのです。
24時間365日、自分の存在価値を疑問に思いながら生きています。迷惑をかけない死に方が存在しないのは苦でしかありません。
他コメントでは当たり前のように既婚者、子持ちの方が見受けられますが、劣悪な遺伝子と確信してる自分の場合、出会いを避けるようになります。幼少期、家ではずっと一人だった故に寂しいという感覚もよくわかりません。
私は私自身以外の方の出産や子育ては祝福できます。ただ、今相手がいる状態で将来を勝手に予想図立てますと、何故子を産むのかについての答えは出てませんし、行動にも移せてないです。
私の周りには過去からの縁により10人くらいの子供と関わっているのと、彼らの成長と人としての純粋さや周りとの関わり方を見ていますがとても良い子達で、まだ見ぬ我が子より今居るこの子達を見守り良き将来への手助けをすることに勝手ながら幸せもきちんとあります。
私の主人とも仲が良く、僕が世話すると言ってくれて仲良くしてくれてまして、じゃあ安心だね(*´︶`*)ノと全く将来世話してくれることに不安も無いです。
こんなにも小さい子も大きい子も仲良く居るのに十分過ぎるのですが、やっぱり産まなくちゃいけないのかと単純な悩みは変わらないんですよね。因みに妊活も雑な始め方してますので、選択として未だに出来てません。
自分に合わないゲームを途中でやめても一部のお金と時間と労力が無駄になるだけ、命まで差し出す必要なんて全くないけど人生は……、って考えると子どもを持つ気にはなれません。
私は反出生思想を持っています。「主義」とまで言わないのは、友人で子供を産み育てる人も多く、それに対して「おめでとう」という気持ちはありお祝いもするので、あくまで個人的な考えのためです。
「生まれてきたくなかった」こう言うと不幸な身の上だと勘違いされますが、両親に恵まれ大きな不自由はなく育ち、愛をたくさんもらってきました。友人もパートナーもいて、趣味もあります。だけど、それでも「生まれてきたくなかった」のです。
生まれてしまったから、せめて楽しく生きたい、限りある時間を充実させたい、と日々行動しているに過ぎません。幸せだなぁ、楽しかったなぁ、心からそう思い家に帰り、夜ベッドの中で生まれてきたくなかったなぁ…と泣きながら眠りにつきます。
自分が子供を産んで、もし同じように反出生思想を持ってしまったら、きっと苦しいでしょうから、私は子供を産みたくないです。ただすでに生まれてる命には幸せになってほしいので、友人の子や地域の子どもたちには優しく接しています。
二人目の子供の可能性あってどうするか迷うときあるけど、やっぱいいやと思えるようになった。子供かわいいけど自分の人生ってそれだけじゃないし。
夫婦なんて所詮他人。子供は夫婦に必要だと思えるけど、一人で十分。
早く仕事引退していつか独りになって自由になりたい。
生まれてしまったからには、死ぬことしか確実なことがない。
「努力すれば」「生きていれば」というのは、勝手な希望でしかないと思う。
2月に結婚するが、夫も私も「親からの育て方しか分からないから、親のような子育てをしてしまいそう。親のようになりたくない。」「自分の子供が障害者や犯罪者になった時に責任が取れない。」という思いが一致しており、子供は産まないと決めた。
私は夫と出会い、夫との日々をなるべく長く過ごせるように生きていくと思うが、別に生まれなくても良かったと感じる。
子供を産み育てている人たちとはお互い理解し合えないので、深い関係を持たないようにしている。
産みたい人が産めばいいと思うので、「産むことが正義である」「産んだ私たちは偉い」「子供は全員尊い」という考えを押し付けるのはやめてほしい。
結局のところ、生と四苦八苦はセット売りなんだから生は罪だと言う単純至極な話ですよね。
幸福な時もあるということは反証にならないし、それをどう感じる生きるかは本人次第と言うのもまったく反証にならない。宝くじのあたりとはずれを同時に手渡されるようなもの(当たりくじは条件付きだし、はずれくじはたいてい高額)で、この思想は子供がもらった宝くじをどう使うかではなく、宝くじをわたす「親の是非」の話なので。
ちなみに、これは生まれてしまった僕らが真摯に生きることと相反しないので、僕はきちんと生きます。子供は作らないけれど。
反出生主義の人達の考えは人間の誰もが経験することだと思う。生きていれば様々な精神的かつ肉体的な苦痛があり、それが嫌で生きたくない、死んでしまいたいと思ってしまう。先の人生などは誰も知り得ないが、今の不幸を享受し続ける人生だったならば、生きてる意味はないのか?など思う。
ここからは自分の話になるが、僕は生まれつき体が細く難聴で家庭も貧困と周囲と比べて不遇を与えられてきた。僕以上に困難がある人達もいるが、僕もまたその困難を苦痛をたくさん経験したと思う。
死にたいと思うこともあった。マンションに住んでいたので飛び降りたらどうなるんだろうとベランダで下を眺めながら想像したり、ナイフを手首に当てたこともあった。だが直前で怖くなりやめた。勇気がなかったのかも知れない。
昔から臆病なのが幸いし今も生きている。だが生きてしまったと思っている。別に自分の人生で何も楽しいことがなかったわけではない。無論幸せな日々もあった。楽しい日々もあった。だが、時折自分に絶望する。生きている意味はあるのかと。幸せに生きることはできないかもなと。。
僕は生きている中でいずれ聴力がなくなる。どんなに薬を飲んで抑えても、その成長の日々でみんなの声が聞こえなくなっているのを感じるのだ。これは絶対に来る未来だ。無駄に消費した薬やその生きてくためのお金、これから消費して生きる意味は価値は自分にあるのかと思う。
僕はただ幸せに幸福にただ普通に暮らしたい。それだけだ。生きたいのか死にたいのかそれはまだ分からないが、ただ何も思わずに自由になれるのなら、それだけでいいと思った。また生まれてくるのなら、ただ家族と友達とそして自分とただ自由な日々を暮らせるのならそれだけでいいと、その為だけならばこれから百年後に死にそして、生まれてきても良いと思った。
人間が皆同じでないことなど知っている。ただ自分はそう思った。その為だけならば悪くないと。
公表されている上では生殖能力は女にしかないのだから、わたしは施設で育つ子供たちにもっと税金とかかけてあげて、子供が欲しい人には子どもを、子どもが欲しくない人には出産だけ手伝って貰えばいいんじゃないかと思ってしまう。
勿論出産にかかる費用や生活費は国全体で出す。じゃなきゃ人類は滅びるし、先人が気づいてきた文明の進化も淘汰されるし、自分たちが年老いた社会を支えるのは誰?って話になる。
国が育児にお金出さないとか育児のためのお金を子どもじゃなく自分の至福のために使うバカ親に渡るくらいなら、育てる人と育てないでお金を出す人に分けてしまえば、親ガチャに外れて苦しむ子どもも減るんじゃないかな。
施設も18過ぎたら出てくってのも、自分の親に育ててもらったから幸せ的な洗脳を植え付けるから不幸に感じるだけで、ちゃんと育ててくれる人と養育費があれば、誰が育てても明日食べるお金がないとか進学できないとかの絶望感よりよっぽどマシだと思う。
自分の遺伝子を持った生きづらい子を産むくらいなら産まない、産んでも私はうまく育てられないだろうから産まない、そう思って過ごしてきました。
結婚した時「この人なら私のマイナス思考を上回る楽しさや喜びを子供に与えてくれるかもしれない」と思ったけれど、自分の病気により今は子供が望めないとわかった時ほっとしました。それと同時にそんな自分の人生に誰かを巻き込みたくないと思い離婚しました。
酔って暴れる父だったけど、毎日ではないし普通の生活はできていました。姉妹も普通に健やかに成長して家族を築いています。「普通って何?」とも思いますが、41歳シングルは周りからわけありとも見られます。
私は養護教諭をしています。社会的養護が必要な子供、家族に苦しむ子供をたくさん見ています。なぜ大事にしないなら子供を作るんだろうと思います。
経済的に満足いかないのに子供を持とうとする気持ちもわかりません。親の気持ちに十分に寄り添えない分、大人になっても子供目線でいられることはこの職業にとってある意味大事なことだと思い、今はそんな自分に少し満足しています。
口には出しませんが、子供を持つ人はそれに見合う立派な人なのだろうか、子供と一緒に育つと言ってもスタート時に「自分は親になれる」と自信がもてる気持ちがわかりません。そんなにあなたは立派なの?と思います。
「ただ子供がほしい」「かわいいから子供がほしい」「子供がほしいは当たり前」の感情もわかりません。この年になり結婚や出産について触れられにくくなり、やっと楽になってきました。
産むのと同じでできれば死にたいと思います。死にたいより、生きていたくないという感じです。そんなこと言いながらも、大笑いするし、美味しいものが好きだし、旅行もするし、友達も彼氏もいて、仕事でも期待される立場にあって生活しています。
でも、自分の存在を消すようにいなくなれたらと思います。それは無理だから自死ための行動はしないですけど。
こういう話ができる場所は少ないのでありがたいです。いつかそういう思いの方と本音で話してみたいし、そういう研究者の方とじっくり話してみたいです。このようなテーマを扱ってくださりありがとうございます。
毒親ではなかったが物心ついたときからなぜ生まれてしまったんだろうと思っていた。
50代になって私がいなかったらうちの家族どうなってたんだろうと思うことが続いた。全て私が引き受けた。父は早く亡くなったが母と独身の兄と姉を看取る義務が私にはある。
私は結婚した流れで子どもを授かった。子はかすがいで今まで家庭は続いている。しかし、息子はこんな世の中で希望は持てない日本だから子ども作って良いのかなと言ってる。私も結婚するまでそう思ってたから。同じこと言ってるなと。
自分としては、結婚してからは幸せになったと思ってるし生きていくことに迷いはない。
不幸な境遇、生きづらい社会や時代でなければ生まれても良いという意見が散見されます。しかし、釈迦は王族の子として生まれ、何不自由のない生活を送りながらも、人間の根源的な苦しみに悩み、出家をしました。
人として生まれるということは、境遇や社会、時代に関係なく、すべて苦しみである(一切皆苦)ということを釈迦は述べています。反出生主義の研究者はこのことを主張したいのでしょう。
生まれてきたのはしょうがない、生きることはすべて苦である、しかし自ら死ぬのはとても難しい。ではどう生きるのか。そこが反出生主義の目指すテーマであるように思います。
文中に出てくる森岡氏は、著作の中で反出生主義を「誕生否定」(生まれたことを否定する考え)と「出産否定」(人を作ることを否定する考え)とにわけています。私は森岡氏の考え自体には賛同しませんが、この分類は話の整理のために有効だと思います。
「生まれてきたことを肯定すること」と「人を作ることを肯定すること」、そして「なるべく幸せに生きること」は、関連するにせよ、すべて別の話でしょう。
人間を作ることは倫理的に悪だと私は考えます。お酒を飲みたい、車で帰りたい、代行を頼むとカネがかかるし、翌日取りに来るのも面倒……それでも飲酒運転という選択肢は選ぶべきでないですよね。「自分を騙して」とか「思い切りが大事」とか、そういう話ではない。それと同じです。
この記事の前編に「作らないと決断した側」としてコメントした者です。
反出生主義や産まない選択について非学問的な観点から語られるときに、不幸な家庭環境がバックグラウンドにあると誘導されがちです。前の記事も、こちらの記事もそうでしたね。私も夫も、両親から愛されて育ったと思います。愛し方が誤っていた可能性はありますが、そんなのは誰にもわかりません。
何かを決めたり主張したり議論を成すとき、必ず「誰かのせい」にしたがるこの社会性も、私が子を産まないと決めた一つの要因です。
様々な要因が絡み合っているはずなのに、「子どもがいらないということは、君たちは両親に恵まれなかったんだね」という話に持って行かれてしまう風潮は非常に苦しく感じます。私たちの選択であり、私たちの問題であり、仮に両親に問題があったとしてもあくまで主軸は私たちです。
コメントにはまったくフィードバックないので反応がわからないが書いてみる。
「反出生主義」―この言葉はすごく人生観を曲げさせる。この言葉を知ったとき何かヘンだ、と感じたのは、「主義」と付いているから。
主義と付くと、“自身のみならず、場合によっては他人に押し付けます、これに反対の人々とは私は対立します、”といった心を含む。そして社会に壁を創る。わざわざ意固地に壁を創っても何にもならず、それ以上変われない。
まさに、所詮理解されない、と勝手に創った壁の前で独りで結論を出す人のように。
ベネターについて、彼の主張を導く事由があることは理解できるが、同氏の結論は理解できない。推論が、わかりやすい結論ありきの子供だましなので受けがいいように思われる。従って論理として成立せず空論。ただ、結論に疑問を持ってもらうためのとっかかりには良いだろう。
反出生主義の話題のはずなのに、話が進むにつれに生きる事を美化する流れに変わる時点で終わってる。
結局は反出生主義は誰にも理解してもらえない。
記事中にある愛知県の親子の話は、そのまま私と21歳の娘のことです。息子さんの言葉はそのまま娘の言葉と重なり、年齢も引きこもり状態だったことも同じです。
「反出生主義」という言葉も頻繁に使っていて、最近まで強い希死念慮もありました。15歳までの家庭には緊張感があり、外でもなかなか人を信頼することが難しい様でした。
ただ、妹が人生に前向きで様々なことに挑戦し努力する様子を見て、自分がいなくなったら妹が辛い思いをするのではないか? 妹の人生を台無しにしたくない、という思いもあった様です。あまり人と関わらない、週に数時間のアルバイトを続け、来週からはもっと長い時間で多くの人と関わる仕事を始めます。
私も50代ですが、昨年国家試験を受けて新しい職に就きました。言葉ではなく、身近にいる人間が意欲的に前向きに生きているのを見ることで、人生に何か意味があると考えてくれるのかなと思います。
娘に「生きている意味がわからない」と言われ続け、自分自身はそんなことを考えたこともなく生活してきましたが、これからの人生で答えを考え続けることになると思います。
私も子供の頃からずっと生まれてこなければよかったと思っていました。
父は機嫌が悪いと突然切れて暴力を振るう人でした。私は子供の頃から、ずっと父から暴力を振るわれていました。暴力を振るいながら、お前なんか生きている価値もない死ねとか、誰が食わしてやってると思っているんだ、とかいろいろ酷いことを言われたので、なんで子供なんか作ったのだろうと思っていました。
両親の夫婦喧嘩も激しくて、父が母に出刃包丁を突きつけたり、殴ったり蹴ったりしていました。私と妹は震えながら、喧嘩が収まるのを待ちました。
母はいつも私に父の悪口を言いました。私は母を可哀想に思い、両親の間に立って仲裁をしようとしましたが、無駄でした。それなのに母は私が父から暴力を振るわれても、庇ってはくれませんでした。そんな時は母に何で産んだんだ、こんな辛い思いをするなら、産んでほしくなかったと言いました。
私はこの世の中は誰も助けてくれないから、一人で生きていこうと思いました。父からの暴力は私が高校を卒業するまで続きました。
父からの暴力から逃げるため、一人暮らしをしている元夫と付き合って妊娠して結婚しましたが、何故か夫からも暴力を振るわれるようになり、二人の子供を連れて離婚しました。
シングルマザーとして、仕事をしながら子育てをしました。何故か何処の職場に行ってもセクハラ、パワハラにあいました。私は子供のためだと思い我慢しました。
子供のころから自分に自信が持てず、人の顔色ばかり見ていたからかもしれません。
今は子供も成長して孫もいます。両親は病気で亡くなりました。今までいろいろありましたが、今は落ち着いて生活しています。
ただ生まれてきて良かったのかどうかはわかりませんが、孫が可愛いので、少しでも長生きしたいと思っています。
子供を育てて幸せ、っていう発想が害悪なのよ。自分が幸せになるための道具として子供を作るっていう意識の表れ。成人してしまえば責任を取らなくてもいい他人になるのだから、と。
誰が産んでくれと頼んだのか。望んで生まれてくる子供など存在しません。子供を育てて幸せになるというエゴのために、幸せな人生を歩めるかどうか分からない人間を一人生み出してしまう。皆がそういう利己的な考えの結果生まれてきて、またそれを再生産する繰り返し。永遠の地獄です。
いい加減その地獄を終わらせませんか、というだけの話です。今は避妊も堕胎も出来るのですから、性行為と出産は同義ではありません。生き物を育てたいならペットを飼えば良いだけなんです。
子供いるけど産んで良かったとは思わないし自分自身産まれなければ良かったと思う。
端金配ればいいってわけじゃない。社会的に子供を育てて幸せっていう国じゃない。
産もうと思えば何人でも産めるけど産む価値のない国。生活の保障もない何の安心感も満足も得られない国。