お笑い芸人 天野ひろゆきさん 事務所に切れた名物母ちゃん「うちの息子を誘拐して何するんだ」

藤原啓嗣 (2025年4月13日付 東京新聞朝刊)

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自身の幼少期や家族について話す「キャイ~ン」の天野ひろゆきさん(中森麻未撮影)

カット・家族のこと話そう

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです

怒り慣れていないおやじを

 多くを語らず、遅刻もせず真面目に働いて、背中で見せるおやじでした。運送会社の勤続40年記念に時計をもらったのを自慢げに話してくれたのが良い思い出です。僕はお父さん子だと思います。

 怒られたのは、中学生の時に友達と公園で花火をしていて帰宅が遅くなったことくらい。友達の家族も捜し回っていて、「だめだよ。心配させて」と叱られました。怒り慣れていないおやじを怒らせてしまったと、反省しました。

 夏休みは、おやじの会社で荷物を運ぶ仕事を手伝ってお駄賃をもらいました。自分で稼いだお金は自分で使えるんだと、自立心が芽生えました。尾崎豊さんの影響で、自由とか自分らしさを考えて行動するようになりました。

 その一つが、高校進学です。愛知県岡崎市で成績の良い生徒は岡崎高校といったように進路が決まっているのが嫌で、少し離れた愛知県刈谷市の愛知教育大付属高校を選びました。おやじは僕が先生になると思って喜んで、僕のために離れの勉強部屋を造ってくれました。部屋では友達と遊んでばかりで、先生になるどころか、まさかのお笑い芸人になってしまいましたが。

 僕のコミュニケーション能力の高さは、母ちゃん譲りだと思います。テレビに出る前から「天野の母ちゃん」として有名でした。僕の友達の親が忙しそうだと、その子の分も弁当を作るくらい人のために働く人です。

「こんな良い事務所はないよ」

 東京に行きたくて、日本大学に進学しました。テレビが好きだったので、在学中に萩本欽一さんが所属する浅井企画に入りました。初めての舞台で自分が書いたネタでお客さんが笑っているのが心地よかった。人生の転機でした。

 両親に、お笑いの道に進むと報告していなかったのでひともんちゃくありました。専務に、親に電話するよう勧められ、「浅井企画という欽ちゃんもいる事務所にお世話になることになったから」と告げると、「電話を代われ。うちの息子を誘拐して何するんだ」と母ちゃんが切れた。

 芸能界のことは分からないので、両親も不安だったと思います。これはまずいと、浅井良二社長(故人)が両親を東京での食事に招いてくれました。社長が両親にブランドのバッグをプレゼントしたら、「こんな良い事務所はないよ」なんて母ちゃんは考えをがらっと変えちゃいました。

 実家には僕の出演番組を録画したビデオやDVDが山のようにあって、おやじは口に出さないけれど応援してくれたし、大きな番組に出るとうれしかったようです。おやじが亡くなった時は、ウドちゃんもぼろぼろ泣いてくれて。今は名古屋のテレビ局の仕事も多く、時間があれば母ちゃんに会いに岡崎へ帰ります。きっと今でも僕のことを心配してくれていますからね。

天野ひろゆき(あまの・ひろゆき)

 1970年、愛知県岡崎市出身。91年、ウド鈴木さんとお笑いコンビ「キャイ~ン」を結成し、向き合って尻を突き出すポーズが人気に。音楽ユニット「ブラックビスケッツ」でも活躍。2021年、東京五輪聖火リレーで故郷のランナーを務める。料理が得意で、コンビの公式YouTubeチャンネルで料理動画を配信中。

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