俳優 光石研さん 父が好きなことをできたのは、全部母のおかげ
40歳で退職、喫茶店を始めた父
父は日本統治時代のソウルで生まれ、終戦で帰国して祖父の地元の佐賀県で暮らし、就職で北九州市に来ました。母とともに、八幡製鉄、今の日本製鉄で働いていました。会社の貿易に携わっていて「ニューヨークのツインタワーの鉄は俺が送った」とよく聞かされたものです。
とにかく、型にはまらない人です。40歳の頃、会社の関東進出プロジェクトに抜てきされましたが、僕たちが「行きたくない」と言ったこともあり、退職して、喫茶店を始めました。僕が生まれ育った北九州市の黒崎地区は、繁華街で自営業の家の子が多かった。父が喫茶店を開いて、ようやく商店街の子になれた気がしました。
会社に残った母は仕事が終わると喫茶店を手伝い、世界が広がって楽しかったみたい。一方、父は自分の話をする方が好きで、「接客で人の話を聞くのは嫌だ」と数年で辞めました。その後は貿易関係の仕事をしていたそうです。
父は運動神経が良くてサッカーや登山、スキーにのめり込み、水上スキーにも挑戦。60歳から窯を造って陶芸を始めました。僕がもの作りが好きなのは父譲りなのかな。スポーツを教えて子どもに慕われていた父を、幼い頃はかっこいいと思っていました。それが中学生にもなると、母ともめているのが分かるんです。わがままな面もあるし、お金のことだろうとひそかに思っていました。
会社に残り残業で家計を支えた母
母は家計を支えるためによく残業していました。父が好きなことをできたのは、全部母のおかげです。その後、母が早期退職した時は、昔ほどお金に困っていない感じで、幸せそうでした。母はピアノや絵を習い始めて、こういうことをしたかったんだろうなと僕はしみじみしました。
僕が高校で俳優になると決心した時は、両親とも応援してくれました。夢中になることがなかったのが、目標ができてうれしかったみたい。デビュー作の撮影を終えると、母は「大人になって帰ってきた」と迎えてくれました。
公開後は芸能事務所から自宅に電話がかかってきて、父が応対していました。だんだんと受け答えがうまくなって、「日数はどれくらい」とマネジャーのように交渉していたのには、噴き出しました。
母は病気で60歳で亡くなりました。見舞いに行くと「このお金でウナギを食べておいで」と励ましてくれました。当時30代の僕は仕事がなくて心配だったでしょう。今みたいに忙しく働いている姿を見せられず、心残りです。
父には、今回共演した映画も見てほしい。でも、自分のことばかり考えているから、僕のドラマとか見たことないんですよ。大好きと大嫌いが同居しているような存在。いまだにわがままで「アイフォーンの新機種がほしい」と電話してきます。どんな機種でもいいだろうと思うんですが、元気でいてくれるから、幸せなんです。
光石研(みついし・けん)
1961年生まれ。1978年公開の映画「博多っ子純情」のオーディションで主役を射止めた。高校卒業後に上京し、国内外の映画やドラマ、舞台で活躍する。6月9日には12年ぶりの単独主演映画「逃げきれた夢」が全国公開される。舞台は故郷の北九州市で、劇中の父親は実の父の禎弘さんが演じた。
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