バイオリニスト 古澤巌さん 泣きながらの猛練習、それでも母のために弾いた

砂本紅年 (2018年4月22日付 東京新聞朝刊)

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写真 練習に厳しかった母について語る古澤巌さん

練習に厳しかった母について語る古澤巌さん(岩本旭人撮影)

なぜそこまでやらせたのか、わかりません

 父は佐賀県生まれ。戦中は長崎・佐世保の海軍にいたそうです。そのころ祖父母は長崎で暮らしており、原爆投下直後、19歳だった父は親を捜しに長崎に入り、被爆したと聞いています。祖父母は僕が小さい頃に亡くなってしまったので、会ったことはありません。父から戦争や軍隊の話を聞いたことはほとんどありませんが、そんな体験からか、子どものころ、原爆の本ばかり読まされた記憶があります。

 両親は父が海軍にいたころに出会い、戦後、親戚と東京に出てきました。ものすごく仲が良く、夫婦げんかは見たことがありません。父がすごく母にほれていたようです。

 バイオリンを始めたのは3歳。保育園の先生が「左利きなので、何か習い事をさせては」と母に言ったそうです。左利きだとなぜ習い事に向くのか僕には分かりませんが、とにかくそれがきっかけ。ピアノは高価なので、近所でバイオリンを買ったそうです。

 教室では、先生に「左利きならやめた方がいい。人の3倍は練習しないといけない」と、これまた何の根拠があるのか言われ、人の何倍も練習させられました。野球をするのもテレビを見るのも駄目。嫌でたまらず、常に泣きながら弾いていました。

 母は、僕をバイオリニストにしたかったわけでも、自分に音楽の経験があったわけでもなく、なぜそこまでバイオリンをやらせたのか分かりません。それでも僕は母のために弾きました。母はただやめさせなかった。真面目で頭が堅いんです。

父はオーディオマニア、あらゆるジャンルがあった

 父は法律事務所で事務などをしていました。裕福ではなく、家計は大変だったと思います。僕は小学校高学年になると、レッスン代の高い先生に弟子入り。進学した桐朋女子高校音楽科(共学)も、私立大の医学部よりお金がかかるといわれていました。母はタイプライターの内職もしていました。妹もいますが、外国の楽器を練習しているからと、僕だけステーキを食べさせられたりしました。

 父はごく普通の昭和のおやじで堅物。オーディオマニアで、家の床がきしむぐらいのレコードがあり、毎日何時間も、あらゆるジャンルの音楽がガンガン鳴っていました。そのせいか、僕は家で聞き覚えた音楽は練習せずにすぐに弾くことができました。

 父は数年前、84歳で亡くなりました。母は元気で、今もどんな演奏会にも来てくれます。僕にお金をつぎ込んでくれたので、僕も両親の家を建て替え、かかったお金を返したつもり。でも、いくら返しても、返し足りないでしょうけどね。

古澤巌(ふるさわ・いわお) 

 1959年、東京都生まれ。1979年、日本音楽コンクール第1位。1982年、桐朋学園大を首席で卒業。テレビやラジオ番組のテーマ曲も担当。雅楽師東儀秀樹さん、アコーディオニストcobaさんとのコラボ「TFC55」の公演は2018年8月4日と11月28、29日に東京、9月22日に埼玉、同30日に神奈川で。

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