義父の暴力、施設入所、母の病死、借金…「虐待の子だった僕」が半生を書籍化 壮絶体験を糧に若者を支えるブローハン聡さん

出田阿生 (2021年6月8日付 東京新聞朝刊)
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「いまはこんなに楽しく生きています」と話すブローハン聡さん=さいたま市で

 さいたま市を拠点に、児童養護施設などを出た若者の自立支援活動をするブローハン聡さん(30)が、自身の半生をつづった「虐待の子だった僕 実父義父と母の消えない記憶」(さくら舎・1650円)を出版した。幼いころから義父の虐待を受け、施設に入り、14歳で母を病で失った。壮絶な体験を糧に、今は当事者として、同じような境遇の若者を支える。初めての著書に込めた思いとは-。

無国籍、無戸籍 虐待は誰にも言えず

 「僕の経験は、社会がふたをして見ないようにしてきた部分。だから個人的な話であっても、自分ごとではなく『社会ごと』だと思い、この本を書きました」。そう語るブローハンさんは現在、施設や里親の元から社会に巣立った若者の自立を支援する一般社団法人「コンパスナビ」(さいたま市)の広報マネジャーだ。

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ブローハンさんの著書「虐待の子だった僕」

 フィリピン人の母と、別に家庭がある父の間に東京で生まれた。無国籍で無戸籍、住民票もなかった。4歳の時、母が別の男性と結婚。義父の虐待が始まった。駐車場に連れ出されて殴られ、水風呂に沈められた。痛みを感じないよう、意識を飛ばした。「幽体離脱のように、暴力をふるわれる自分を、別の自分が見下ろしていた。だからほとんど記憶がない」。尻など他人に気付かれにくい部分をライターであぶられた。小学5年の時、やけどでいすに座れなくなり、教師が気付いて児童相談所に連絡。一時保護所に預けられ、児童養護施設に入った。

 虐待を誰にも言えなかった。「義父の暴力の矛先を、母に向けさせないため」だった。それほど守りたかった最愛の母は、14歳の時に病気で亡くなった。絶望のどん底から立ち直るきっかけをくれたのは、施設のテレビに偶然映った1枚の写真。ハゲワシに狙われる餓死寸前の少女の姿だった。「世界は広い。生きているだけで幸せなんだ」と自分を客観視できたという。

生きる目的失っていた 転機は26歳

 ただ、18歳で施設を出た後が「また大変だった」と振り返る。事務職として就職した病院は低賃金だった上、看護学校の学費名目で借金をさせられた。携帯電話ショップの派遣社員に転職した時は、売り上げ全国1位に上りつめた。だが、給料の大半を母の親族に渡して貯金もできず、生きる目的を見失っていた。

 うつ状態を脱出できたのは26歳の時だった。施設などで暮らした経験がある若者の支援団体を創設した女性に、生まれて初めて悩みを相談。「負の部分をひっくるめて自分が受け入れられた」と感じ、それが転機になった。「自分の人生を生きる」と気持ちが前向きになり、取材を受けたりネットで配信したりと、当事者として発信を始めた。

 27歳でコンパスナビに就職。埼玉県の委託事業で、施設などを出た若者の自立支援をする「クローバーハウス」(さいたま市)の管理責任者になった。

 著書の執筆は初めてだったが、自分の経験をどう言葉にすればいいのか、繰り返し考えてきたことが生かされたという。各章につけた解説のコラムも「言われてうれしかった言葉、嫌だった言葉」「児童養護施設と里親、どちらで育つのが幸せ?」など読み応えがある。

 次の著書も計画しているというブローハンさん。「さまざまな人に助けられて今がある。声を上げることで活動を連鎖させて、みんなで少しずつ社会を変えていきたい」と話している。

元記事:東京新聞 TOKYO Web 2022年6月8日

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