歌手・俳優 松原凜子さん 言うことを聞かない私を、母は尊重してくれた

有賀博幸 (2023年12月17日付 東京新聞朝刊)
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家族について話す歌手で俳優の松原凜子さん(五十嵐文人撮影)

家族のこと話そう

「芸術系の家だね」言われるけれど

 父と母、8歳上の姉、5歳上の兄の5人家族で育ち、紛れもない末っ子です。母がママさんコーラスをしていて、おなかの中にいる時から歌を聴いていました。物心つくと母の練習についていって一緒に歌い、家では母と姉とで唱歌の輪唱や「君をのせて」などを重唱したものです。楽しかったなあ。

 父は大学のデザイン科卒ですが、やはり歌好きで、土日には掃除機をかけながら布施明さんとか加山雄三さんの歌を大声で歌ってましたね。兄は東京の劇団で役者をしています。周りから「芸術系の家だね」って言われますが、私としては一般のサラリーマン家庭で育った感覚です。

 小さい頃から高音域が無理なく出て、小4で入った地元の少年少女合唱団では、ソロを歌う機会に恵まれました。中3の夏、友達に誘われて岐阜県内の高校の音楽科を見学し「音楽に満ちあふれている!」とすっかり虜(とりこ)に。兄からも「普通科に行って何するの?」と気持ちを後押しされました。意思が固いとみた父が、音楽科もあり自宅から40分ほどで通える愛知県立高を教えてくれました。

何度もぶつかった芸大卒業後の進路 

 声楽の師匠に勧められ、1浪して東京芸大声楽科へ。ミュージカルサークルや同期の3人組でのコンサートと忙しく活動し、クラブで歌うバイトもしました。「THEカラオケ★バトル」に出場したのも、このバイトが縁です。

 卒業後の進路について母は、芸大生の多くがたどるように、大学院を目指すか留学の道を望んでいました。でも私は当時、公演やライブなど11もの活動をしていたし、「現場が自分の勉強の場だ」との思いがありました。何度もぶつかりましたが、最後は母が折れてくれました。

 卒業の翌年、「レ・ミゼラブル」のオーディションでエポニーヌ役に決まり、電話で伝えると、母は「エーッ」って叫んでました。帝国劇場と中日劇場(当時)の両方見に来てくれ、舞台に登場した瞬間「泣けた」と。今では「凜子が私の言うことを聞かずに貫いてくれたから、今がある。本当に良かった」と。母は誰かと意見が衝突してもちゃんと話をし、自分の考えを変えていける人。そんな面を尊敬しています。

 いい声帯を持っていても、音をどう紡ぐか、感性が伴わないと歌にならないはずです。思えば小さい頃からたくさん音楽を耳にし、父にはあちこちドライブや映画館に連れていってもらい、家で大人の映画も一緒に見ていました。「いいものを共有したい」との思いがあったのでしょう。それら全てが、私の感性を育ててくれたと思っています。

松原凜子(まつばら・りんこ)

 1992年、岐阜県多治見市生まれ。4オクターブ超えの声域を持ち、2009年に第63回全日本学生音楽コンクール名古屋大会第1位、全国大会入賞。「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」はじめミュージカルやオペラに出演。12月25日、東京会館丸の内本館で「松原凜子 CHRISTMAS SALON CONCERT」、来年2月7~12日、東京銀座の博品館劇場でミュージカル「Play a Life」出演予定。 

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