現代美術家 藤原更さん 祖父が導いたアートの世界 「自分の目だけでものを見ていると思っちゃ駄目だよ」

藤原更さん(井上昇治撮影)

各界で活躍する著名人が家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです
でっち奉公から起業、そしてパトロンに
大好きだった祖父がいます。現在の愛知県愛西市の小さな家に生まれたのですが、でっち奉公から頑張って、同県津島市に毛織物の会社をつくりました。庭が好きだったこともあって、家がとても大きく、私も子どもの頃、その家に祖父母、両親と一緒に暮らしていました。
祖父は豪快で目立つ人柄。会社では厳しかったと聞いていますが、今も「よくしてもらいました」と祖父との思い出を懐かしんでくれる近所の人がいます。孫の中でも、一緒に暮らしていた私をとてもかわいがってくれました。
奉公先の商家の影響で芸術への感性を磨き、パトロンとして、自分の審美眼で芸術家を支援しました。祖父が庭を一緒につくった地元の庭師は、昭和を代表する作庭家・重森三玲の弟子。重森さんも何度か作庭のチェックに京都から来られました。
この家と庭が私の子ども時代の遊び場でした。茶室が三つあって、幼稚園に通う頃から、こっそり上がっていました。障子越しに差し込む光や、風に揺らめく植物の影の光景が記憶にあります。高床式の珍しい茶室の下には小さな池がありました。
祖父と過ごす時間が長く、縁側から一緒に庭を眺めたりしました。植物や石の名前も教えてもらいました。「自分の目だけでものを見ていると思っちゃ駄目だよ」と言われたのを覚えています。
芸術のひらめきは祖父がつくった庭から
光がないと、この世界は見えません。そして光があれば影もある。影ということで言えば、読書が好きだったので、谷崎潤一郎「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」も小学生の頃に読んでいました。私の作品のインスピレーションの基になっているのが祖父がつくった庭なんですよ。
家に出入りする陶芸家や書家、画家、写真家の方のおかげで、私も自然と芸術に接していました。母方の祖父の兄が京都画壇の竹内栖鳳(せいほう)の弟子だったので、日本画に触れる機会もあって。幼少期の原体験が私が美術家になったことに影響したと思います。
私はいったん就職し、得意だった英語を生かした仕事に就きましたが、20代半ばに写真を勉強し、アートの世界に入っていきました。
私が芸術家になるきっかけをつくってくれたのは紛れもなく祖父。ですが、祖父にとっては、芸術は楽しむ対象で、自分が芸術家になることではありませんでした。パトロンとして、芸術家が大変だということもよく分かっていたので、私には英語の方で頑張ってほしかったようです。
思い出がいっぱいの実家は2014年、父の代のときに処分して、なくなってしまいました。ふと、縁側に座る祖父の横顔が浮かびました。もし祖父が生きていたら、芸術家としての人生を歩んでいる私のことを、少し心配しながら見守ってくれているんじゃないですかね。
藤原更(ふじわら・さら)
1967年、愛知県生まれ。現代美術家。国内外で作品を発表し、名古屋市のヤマザキマザック美術館などに作品が収蔵されている。同美術館で2024年に個展「Photograph 記憶の花 藤原更 Sarah Fujiwara」を開催した。
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