舞踏家・振付家 伊藤キムさん 家庭は「檻(おり)」だと思っていたけれど、創作の幅を広げてくれる予感

神谷慶 (2024年11月10日付 東京新聞朝刊)
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父親の思い出を語る舞踏家・振付家の伊藤キムさん(稲岡悟撮影)

カット・家族のこと話そう

4歳で事故「けがは勲章」豪快な父 

 幼い頃は、祖父が立ち上げて父も社長を務めた、愛知県知立市の砂型鋳造の工場の敷地内に住んでいました。両親、妹と4人暮らしでした。

 砂がためてある場所があり、4歳の時に一人で遊んでいて、後退してきたトラックにはねられて右目を失いました。父の話では、事故の時は仕事で外にいて、電話してきた母に「生きとるのか、死んどるのか」と尋ねたとか。「生きている」と聞いて病院に駆けつけたそうです。バリバリ働く「昭和の男」だった父は、この話を何度も私に聞かせることで、それくらい仕事を大切にしてきたことを伝えたかったんだと思います。

 緊急手術したけど右目の視力は回復せず、眼帯を着けて過ごしていました。父もショックではあったでしょうけど、「けがは男の勲章。常に困難に立ち向かわないかん」と、同情するようなことを一切言わなかった。学校で「片目」とからかわれることもありましたが、豪放磊落(らいらく)な父のおかげか、私もそこまで気にせずに過ごせた。後にこの外見は、プロのダンサー「伊藤キム」のアイコンとなり、今の私を形づくってくれました。

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休憩中に見よう見まねで「デビュー」

 芸術に触れたくて東京の大学に進み、雑用のアルバイトをしていた新宿のストリップ劇場の休憩時間中に、未経験ながら見よう見まねで踊って拍手をもらったのが「デビュー」。劇場の踊り子の紹介で、前衛的な「暗黒舞踏」の流れをくむ女性舞踏家の故・古川あんずさんに師事、独自の表現を追求できるダンスに可能性を感じ、大学もやめ、本格的に活動を始めました。

 地元の大学を出て会社を継いでほしい父からすれば、目算が外れた形。でも、父は「やるからにはしっかりやれ」と背中を押してくれた。「ゆっくり動くのって、速く動くより難しいよな」と私の舞踏を評価してくれたこともありました。人を否定しない人。一番、尊敬している人です。

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子育ての時間も、創作の時間も

 作品を創る時には一人で集中する必要があって、何にも縛られずにいることで、曲がりなりにも実績を残してきた。家庭には責任が伴い、自分が檻(おり)に囲われてしまうような印象があり、「一生結婚しない」と言い続けてきました。

 でも、両親も諦めず「いつ結婚するんだ」と聞き続けてきた。自分でも意外でしたが、だんだん年を取る親の姿を見て「安心させたい」と気持ちが変わってきた。その頃に出会い、とても良い関係を築けた女性と50歳の時、結婚しました。バレエ講師をしている妻はダンス以外の知識も豊富で、彼女なりの物の見方が私を刺激してくれています。

 父は5年前に亡くなりました。今、7歳と4歳の息子がいます。「創作も、家庭も」というジレンマに、あたふたもする日々。でも、人が生まれ、言葉を覚え、成長していく過程に立ち会える毎日は、発見に満ちていて、感動さえ覚えている。創作の幅も大きく広がる予感がしています。

伊藤キム(いとう・きむ)

 1965年、名古屋市生まれ。1987年に女性舞踏家の故・古川あんずさんに師事、1990年にソロ活動を開始。仏バニョレ国際振付賞など受賞多数。舞台「呪術廻戦」の振付も担当している。横浜市青葉区の自宅併設スタジオで毎週土曜、舞踏を基本とした体づくりやエクササイズの教室を開講中。問い合わせはメール=ttanastudio@gmail.com=で受け付けている。

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 12月15日午後2時と午後6時から、舞踏公演「素敵(すてき)なパーティ 踊りましょう」が、東京都新宿区の神楽坂セッションハウスで行われる。主宰するダンスカンパニー「伊藤キム&GERO」に加え、11月1日に開講したワークショップで伊藤さんの指導を受けながら身体表現を磨いた20~60代の12人がソロや群舞を披露する。「ダンス歴もさまざまな人たちが、短期集中で鍛えた生々しい体を舞台空間に投げ出した際の、必死さや人間くささを見てほしい」(伊藤さん)。前売り3500円、当日3800円。

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